フォロー中のブログ
検索
以前の記事
2017年 05月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2015年 07月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2014年 11月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 05月 2013年 03月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 10月 2012年 06月 2011年 10月 2011年 06月 2011年 03月 2011年 02月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 その他のジャンル
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2012年 10月 13日
「Odyssey of Iska 1984」 17.イスタンブール(1) ミコノスからアテネに戻るとすぐに旅行会社に行って、イスタンブール行きのバスのチケットを買った。そしてバスに乗り、丸一日かけてイスタンブールに着いた。 途中、国境でバスから全員降ろされ、荷物とパスポートのチェックを受けた。 結構時間をかけて一人一人チェックするので少し不安になったが、私だけはあっという間に終わった。そしてまたバスに乗った。 トルコに入ると景色が変わった。各村々には必ず特徴的なミナレット(尖塔)のあるモスクがあり、アザーン(礼拝時刻を知らせる独特の音楽)がどこでも流れていた。 とてもエキゾチックな感じがした。 それはイスタンブールに着くと最高潮に達した。 それまでのヨーロッパの風景とはまるで違っていた。 私はアリババの末裔達の国に来たような気がした。 時刻は夕刻だったのでインフォメーションで紹介されたホテルにタクシーで行った。さすがに着いたばかりで見知らぬイスタンブールの薄暗がりの街を歩いて行くのは危険だった。 ガラタ塔のすぐそばにあるホテルは少し胡散臭い感じで、チェックインすると、薄ら笑いするホテルの男から大きな鍵を渡された。 ガチャガチャ苦労してようやく部屋に入り、一日バスで揺られたので疲れを取ろうと風呂場でバスタブを見ると、底に栓が無い。電話をかけると「ああ、これか」という感じで黒いゴムを渡された。それを詰め、たっぷりお湯の入ったバスタブにつかりながら考えた、というか、直感した。 明日、ホテルを替えよう なかなか年代物の部屋だ。別にそれが嫌いというわけではないが、何かを置いておくと魔法のランプで消えてしまうかもしれない。そうなった時に私は私にいいわけをしたくない。ただそれだけの理由だ。 翌朝、日本大使館に行った。ブルガリアの国境を抜けるためにはビザが必要だったからだ。(日本で申請したら時間がかかると言われ、それなら現地で取ろうと思った) 日本人のTさんに出会った。Tさんにビザの話をすると、 「私が知り合いに頼んであげるから2、3日で降りるだろう」と言った。おまけに、 「そんなホテルはやめないさい。もっと安くてあなたに向いた所がある」と言われた。 目を見れば信頼できる人だということはすぐにわかった。彼女の言う通りにした。 チェックアウトをしにホテルに戻った。近くまで来た時、タクシーが急にスピードを上げてグルッと遠回りし、キキーッと玄関先に着けた。 「やられた!」とTさんが叫んだ。 「ここのタクシーはいつもこうなんだ」 その後、彼女の勧めるバックパッカーの溜まり場のゲストハウス(簡易宿泊所)に行った。 値段は1/3くらいになり、気安い仲間がいっぱいいて、 「どこから来たんだ? ヘ〜、ジャパニーズか?! お前みたいなのは珍しいな!」 と気さくに皆話しかけて来る。 とりあえず1週間泊まることにした。 Tさんが息子を紹介しようというので、彼のいるキリムの店に行った。 驚いたことに金髪で青い目をしている。そして日本語はペラペラだ。日本人のかわいい女の子を見かけると口から泡を飛ばして熱心にアタックする。 それを見ながら、困った子だという風にTさんがため息をついた。 Tさんは昔ドイツ人と結婚してイスタンブールにやって来たのだが、やがて離婚し、息子と二人でそのままこの地に留まったのだという。 「日本には帰らないのですか?」と聞くと、遠くを見るような目で、 「たぶん、帰らないでしょうね」という。 その横顔は毅然とした美しさの中に淋しさも入り交じって哀感があった。 このキリムの店はとてもおもしろかった。 彼女の息子はもちろんだが、他の売り子も皆口八丁手八丁で、見ていて飽きなかった。 経営者のトルコ人はとても親切で、本物のキリムは燃やしても表面が少し焦げるだけで中は大丈夫なんだと言いながら、本当にライターで火を着け、焦げた部分をサッと手で払って、「どうだ!」という顔をする。 三越のバイヤーがこの前来て、馬鹿みたいに買っていったと言った。確かにクオリティーは高いのに値段は驚く程安い。日本に行ったらきっと10倍くらいの値になるのだろう。 イスタンブールのモスクや街並を毎日探索し終わると、いつのまにかこのキリムの店に足が向いた。本当は一月くらいここでボンヤリしていたかった。 そうすれば小説が書けたかもしれない。 だが、旅はまだ序の口に過ぎなかった。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2012-10-13 22:16
2012年 06月 22日
「Odyssey of Iska 1984」 16.ミコノス ギリシャに行ったらエーゲ海の島々を見ようと思った。 ホメロスの「オデッセイア」に惹かれていたからだ。そして「エーゲ海の村と街」(A.D.A.EDITA Tokyo 1973)に出て来る美しい島々や街を実際この目で見たかったからだ。 また、大学時代好きだった長田弘の詩「多島海」(英語でArchipelago=エーゲ海のこと)からの連想で、その影響もある。 早起きしてアテネからピレウスまでバスで行き、港でチケットを買って大型客船に乗った。 エーゲ海クルーズの始まりだ。 船は途中、シロス島とティノス島に寄った。 これらの島々も港から山の頂きに向かって白い家々が斜面を埋め尽くし、とても美しい。以前ローマで暇な時につくった手製のパタパタ(横長に開く屏風折りの朱印帳。ヨシザカはいつもスケッチをこれに描いていた)を取り出し、スケッチをした。 ミコノス島には昼過ぎに着いた。 遅いランチを港のそばのレストランで取り、それから街をブラブラした。 至る所で縦長のモップのような物でバケツの中の石灰液を壁に塗るおじさんに出会った。こういう人達の地道な努力無しではあの美しい光景は保たれないのだ、当り前の話だが。 ミコノスは一日にして成らず、だ。 一泊するので宿を探しながら島を探索した。 西の岬に向かって歩いていると、小高い丘の上に小さな安宿があった。 テラスからそのまま部屋へ入れ、眺めも最高だ。 すぐに気に入り、宿代を前払いして鍵をもらった。 シャワーを浴び、夕陽を見ながらテラスでボーッとした。 至福の時間を過ごした。 夕食を食べにふたたび港のそばへ行った。 1軒のレストランがあった。 (絶対ここは美味い!)と直感した。 ドアを開け、中で食事をする人を見ただけでそれは確信に変わった。 (こういう本能的に何かを感じる能力は放浪するうちに自然と備わっていった) 一人の男がテーブルから立ち上がって、手の平を前後に動かしながら私を招いている。 後に誰かいるのかと思って振り向いたが誰もいない。 「俺?」と人差し指で自分を指し示しながら、その男に聞いた。 するとウンウンうなづきながら笑っている。隣に座っている女性も笑っている。 テーブルに近づいていくと二人から握手された。 「僕はマイケル、彼女はワイフのスーザン。 もうすぐ友達のジョンもやって来るから、よかったら夕食を一緒にしないか?」 すぐにOKした。見ただけで悪い人達でないことはわかった。 聞くと二人はカナダ人で、世界一周をしながら母国の雑誌や新聞に記事を寄稿し、そのお金で旅を続けているのだと言う。ミコノスに来たのは一月程前で、そこでジョンと知り合った。ジョンはイギリス人で、仕事を定年してミコノスに住み着き、毎日釣りをしているのだという。 やがて口髭をたくわえた、きちんとした身なりの紳士がやって来た。 楽しい夕食が始まった。 だが、しばらくするとそれは苦難に変わった。 ジョンがおもむろに聞いた。 「ところでカズマ、私はミシマの愛読者なのだが、彼の死と彼の文学との関係を君はどう思う?」 面食らった。三島由紀夫の作品は3冊しか読んだことがない。しかも彼の死と彼の文学の関係など考えたこともなかった。しょうがないので、しどろもどろに 「彼が死んだのは私がまだ高校1年の時で、授業中にそのニュースを知った。 あまりに衝撃的で、その衝撃は今も続いている。だから冷静には考えられない」 と答えた。こんな会話がいくつかあって、内心、料理どころではなくなってしまった。 今なら、 「ところでジョン、君の人生とシェークスピアの文学との関係はどうなんだい?」 と切り返せるのだが・・・ 夕食の後も別のカフェに行って、みんなで楽しい夜を過ごした。 もう、ミシマの話は出なかった。もっと気安く、笑える話題ばかりだった。 3人の温かい歓待で、忘れられないディナーとなった。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2012-06-22 19:47
2012年 06月 08日
「Odyssey of Iska 1984」 15.アテネ アテネに着いた夜は同じホテルに泊まったが、次の日からは3人別々になった。 私はさっそくアクロポリスの丘を上りパルテノン神殿に向かった。 パルテノン神殿は建築を志す者にとってはコルビュジェの「東方への旅」で有名だが、私はむしろ大学の西洋建築史の授業で受けたH教授の熱弁の方が印象深い。 (H教授は中古の車(彼の言では「ボロクソ・バーゲン」)を買って憧れのパルテノン目指し旅した。この話は第1話、第2話・・・と延々と続き、何と授業の半分近くをパルテノン=ギリシャが占めた。そのため、その後のローマ、ビザンティン、ロマネスク、ゴシックは駆け足で、ルネサンスまで行くのがやっとだった。「後は自分で本を読んで勝手に理解しろ!」という凄い授業だった) だが、実際のパルテノン神殿にはコルビュジェやH教授ほど私は感銘を受けなかった。 むしろ、為政者の権威主義的なものを感じて鼻持ちならない気分になった。 付属の博物館を観るとすぐに丘を降り、ランチを食べにプラカに行った。 プラカはアクロポリスの裾野に広がる旧市街で、ごちゃごちゃした中にレストランや土産物屋がたくさんある、私好みの街だ。 通りを歩いてレストランを探した。 イタリアでは感じなかったが、3月の終わりのギリシャはとても温かい。おまけに風が通り抜け、気持ちが良い。 オリーブの街路樹に面したレストランで陽の光を浴びながらランチを採ることにした。 結果は大正解だった。白いチーズが載ったギリシャサラダと肉を串刺しにしたスヴラキ、白いワイン(松脂が入っていた)を飲むとほとんど天国にいるような気分だった。 (以後、私はレストランで食事をする際は屋外の席を好むようになった。それはこの時から始まった習慣だ) 翌日、アテネから電車に乗ってミケーネに行った。 ミケーネに行こうと思ったのは、昔からホメロスの「イリアス」と「オデッセイア」に惹かれていたので、そこに出てくるミケーネがどんな所か知りたかったからだ。また、同じくその物語に憧れ、私財と情熱を投げ打って発掘したシュリーマンの成果を見たかったからだ。だが、実際見たミケーネはそれほどではなかった。私は自分が考古学者には少しも向いていないことを悟った。 ランチは遺跡のそばの屋外のレストランで採った。これまた大正解だった。 帰りにコリントス運河を渡る時、電車がゆっくり走り、深い谷底の運河が見えた。 これを掘った奴らはシュリーマン以上に異常だ。 夕方、アテネに戻ってプラカのアクロポリスに近い山の斜面を歩いていると、「スヴラキ・ザ・ベスト」という変わった名前の店があった。 若い店員に訊くと、ここのスヴラキ・ピタがアテネで一番安いし、美味い!と言う。 まあ、騙された気分で食べてみるかと一つ頼み、食べた。 本当に安くて美味かった。 もう一つ頼み、それをつくる様子を見ながらスケッチをした。 アテネではどこでも英語が通じた。イタリアから来るとビックリだが、その理由はすぐにわかった。ここは観光と海運業、それに農業しかないので、英語が話せないのは死活問題なのだ。 アテネは白い。それはパルテノンに代表されるように大理石が多く、その印象が強いからだが、それだけではなく、土地が痩せてて、緑が少ない(だから逆に目立つ)からでもあった。 こうしたことは実際現地を見て、歩いて、初めて感じ、わかることだ。 私の中でヨーロッパが少しずつ肉化されて行くのを感じた。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2012-06-08 17:52
2011年 10月 26日
「Odyssey of Iska 1984」 14.アテネへ パレルモからブリンディジまでは長かった。 列車の乗り継ぎが悪く、おまけに一旦ナポリに戻ったので、ほぼ一日かかった。 やることがないので窓の外の景色をずっと眺めていた。 すると、隣のイタリア人夫婦の会話が日本語の意味無しフレーズのように聴こえてきた。 正確に再現するのは難しいが、それはたとえばこんな感じだ。 お前の母さん、今朝、トイレでご飯食べた 一月程イタリアにいたので、耳がだんだん慣れてきて、(意味はわからないが)音は聞き取れるようになったのだ。これと同じようなことはドイツでもフランスでも経験した。 語学は慣れだ。 ブリンディジに着いたのは夜も遅い時刻だった。 アテネ行きの船の大きな尻が見える。 船に乗るためボーディング・チケットを買いに行くと、 「今夜はもう一杯で、ベッドは無い。それでもいいか」と言う。 「だったらどうしたらいいんだ?」と聞くと、 知るか!というような顔をして「買うのか、買わないのか」とだけ言う。 こんな港町に一泊したってろくなことはない。 乗ってから考えることにして、一先ずチケットを買い、船に乗った。 船内でも何度かチャレンジしたが無駄だった。人いきれでムンムンしていた。 居場所がないのでバーに行った。 ここも人で一杯だった。それどころかディスコの会場と化し、もっとムンムンしていた。 仕様がないので止まり木でビールを飲み、人が消えるのを待った。 が、実際ディスコが終わったのは3時近くで、こちらの方がビールを飲み過ぎ、疲れてしまった。 見ると人気の消えたバーの床にみんな寝袋を広げて寝始めている。 私も日本から持って来た寝袋を初めてバックパックから取り出し、その中に入った。 そしてあっという間に深い眠りの底についた。 翌朝気がついたら、太陽はもう高く上がっていた。 甲板に出て下を見下ろすと、プールサイドでデッキチェアに寝そべり、ビキニで日光浴をする若い女の一団が見えた。その周りではプールから出てはしゃぐ若い男の一団。 それらをボーッと見ていたがアホらしくなり、バーに戻ってコーヒーと簡単な食事を取った。 船はやがてギリシャのパトラスに着いた。 そこからアテネ行きの列車に乗った。 車内で偶然日本人の若い男女と一緒になり、アテネまで話をしながら楽しい時を過ごした。(その時、女の子から「私もポンペイで同じホモに会った」と聞き、盛り上がった) 彼女の服装は(驚くべきことに)とても外国を旅行するという風ではなく、折りたたみ式の薄いビニールバッグの中身はカーディガンと雨具、数枚の下着程度だった。 カメラさえ持っていなかった。 「写真はどうするの?」と聞くと 「ここで写すの」と言って、左の胸に手を当てた。 やられた!! 参ったよ!! キミには降参だ! かずま #
by odysseyofiska4
| 2011-10-26 16:45
2011年 10月 24日
「Odyssey of Iska 1984」 13.パレルモ 列車がシチリア島に入った所でアメリカ人の凸凹コンビは降り、ふたたび一人旅が始まった。 数学の難題を解決した後のようにさわやかな気持ちだった。 外を見ると痩せた大地が続く。ところどころにオリーブも見える。 そのうち海岸線を走り始めた。 なだらかなカーブを描きながら列車は快調に走り続け、やがてパレルモに着いた。 駅前広場に出ると予想以上に威厳と格式を感じた。町中を歩いても同様のものを感じる。 さすが、マフィアを生んだ町は違う(と妙な感心をする)。 だが、事実だから仕方がない。 歩いていて、2つのかわいい四阿風のキオスクに出会った。 とてもエキゾチックで、東方の匂いがする。 久しぶりにスケッチをした。 イタリアのほぼ南端まで来たので、私はそろそろイタリアを出てギリシャへ渡ろうと考えた。そのためにはあまり長居はしたくない。 その日のうちにパレルモを発ち、ナポリ経由でブリンディジに向かうことにした。 パレルモの町を短い時間でできるだけ観ようと思った。 駅前から出ている一番長い距離を走りそうなバスに飛び乗った。 行き先はどこでもよかった。 バスは町中をひたすら北に向かって走り、30分程して終点の港町に着いた。 別にすることはなかったので、そのままバスの中にいた。 すると運転手が、なんで降りないんだ?というようなことをイタリア語で言った(たぶん) 私は、また駅に戻って、食事をして、すぐに列車に乗るんだと英語で答えた(が、彼がわかったかどうかはわからない) その代わり、彼は「そうか、お前はジャポネーゼか」と言いながら、安心して足元に隠してあった赤ワインのボトルを水代わりにゴクゴク飲み始めた。 バスの運転手が飲酒運転!?!? 驚いた。で、そのあと彼はゴロンと横になり、発車時刻まで寝ていた。 私も外に出て発車時刻を待つことにした。 道路で子供達が遊んでいる。 日本でもやってる「けんけんぱ」(長崎では「けんぱた」)のようなものだ。 じっと見ていると、私もやれ!とリーダーの女の子が言う。 やるとみんな喜んで今度はワイワイ寄って来る。 「けんけんぱ」の絵を描いてリーダーの女の子に「サインして!」とペンを渡すと、映画俳優のように思い入れたっぷりにサインし、それを丸く囲って、どうだ!と返してきた。 君は将来、ジーナ・ロロブリジーダになれるよ! かずま #
by odysseyofiska4
| 2011-10-24 23:36
|
ファン申請 |
||