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2013年 05月 05日
「Odyssey of Iska 1984」 22.パリ(2) カルチエ・ラタンで安宿を得て間もなく、シャンゼリゼに行った。 別に買物をしようとか、そこが観たかったわけではない。 TCを現金に換える際のレートの良い銀行があると聞いていたのと、JALのパリ支店を手紙の受取先に指定していたので、日本から手紙が来ていないか見に行ったのだ。 1フランが27、8円くらいだった。パリでは長居をすることにしたので、とりあえず5万円を換えた。 JALのパリ支店には日本から2通手紙が来ていた。1通はお袋からで、もう1通は私がK事務所を辞めたことを知った知人からの、自分の事務所への誘いの手紙だった。 たぶん、家に電話をして住所を聞いたのだろう。だが、もちろん私にその気は無く、建築に復帰するどころか日本に帰るのかさえも怪しかった。 お袋の手紙は相変わらずごじゃごじゃ近況や心配事が書いてあった。 どちらも遠い昔か、遠い国のことのように感じられた。 私はどんどん自分が異邦人になっていくのを感じた。 シャンゼリゼ通りはだだっ広いだけで、単調で、少しも感銘を受けなかった。 坂道の勾配も緩くだらだら長いだけで、これなら絶対、表参道の勝ちだなと思った。 遠くに凱旋門が見えたので、そこまで歩くことにした。 門の足元まで来て装飾を見上げていると、突然ガリガリガリという大きな音がした。 驚いてその方向を見ると、門の周囲の道路を迂回している観光バスが小型の乗用車と接触して遠心力で道路の縁に乗用車を押し付ける音だった。 乗用車は少しひしゃげて中から若い男が出て来た。 バスの運転手もバスから降りて来た。 さあ、始まるぞ!! ローマだったら、凄い剣幕で両者が怒鳴り合い、見物人も参加してエライ騒ぎだ!! ところが、二人は二言三言会話をして名刺のようなものを交換するとすぐに別れ、自分の車に戻って発車した。 こんな所で長居をするより、別の時間に別の所で話をしようというのだ。 実にスマートなやり方で、さすがはパリだな!と思った。 お腹がすいたので、ホテルで会ったアメリカの若者から聞いた地元の人が行くレストランに行った。(彼らは「地球の歩き方」のタネ本になった分厚い本を持っていて、そこには旅行者間の情報が詳しく載っているので、安宿や手頃なレストランをよく知っていた) オペラ座の近くの裏通りの2階にそれはあった。小さな看板しか出ていないので確かに旅行者にはわからない。広い階段を上ってドアを開けると、天井の高いホールにイスとテーブルが敷き詰められ、多くの人でごった返している。私もやっと席を確保して座ったが、ギャルソンはたくさんいるのに自分の担当の席にしか来ないので、なかなかメニューがやって来ない。やっと来たので見るとフランス語でしか書かれていない。 ワインと魚とサラダを頼む。目の前の労働者風のおじさんを見ると、フランスパンをムシャムシャ食べながら、ワインに水を入れて飲んでいる。 私の頼んだ物が来た。家庭料理風だ。味は普通で特別美味くはないが不味くもない。 食べ終わってお勘定を頼むと、私の担当のギャルソンが飛んで来て、頼んだ物を口で言いながらテーブルクロス(紙だった)に数字を書き、最後に合計額を書いた。100フラン出すとお札と小銭が帰って来たので、周りの人がやっているようにお札だけ取って小銭は返した。「Merci!」と儀礼的に言って、ギャルソンはテーブルクロスの紙をさっと片付けると新しい紙を敷いた。 (パリでは安いレストランはテーブルクロスは紙で、もう少し高くなるとビニール、もっと高くなると本物のクロスになることがそのうちわかった) Bさんに電話をかけ、次の日合うことになった。 Bさんは大学の研究室の先輩で、フランスに給費留学で来てそのまま残り、当時はI.M.ペイ・パリ事務所でルーブル美術館のガラスのピラミッドの設計監理の最高責任者をしていた。 Bさんはフランス人と結婚してルーブルのそばの高級アパルトマンに住んでいた。 朝10時に行くと、昨日は夜中まで仕事をしていたのでさっき起きてシャワーを浴びたばかりだと眠そうに言った。だが、ガラスのピラミッドの図面(すべてインキングされ、施工図というよりプレゼンの図面のように綺麗だった)を私が見ていると俄然スイッチが入り、これがいかに素晴らしい建物であるかを熱っぽく語り始めた。 ひとしきり語り終えると、「腹減ったな?!飯食うか?!」と言った。 そして近くの中華の店に連れて行った。 店員に向かって何か言い、食事と共にワインが出て来た。 店員がグラスにワインを少し注ぐとBさんは試飲し、「Tres bien!」と言った。 だが、店員が去ると、「不味い!」と叫んだ。 私も飲んだが、どちらでもなかった。 食事をしながら、Bさんはパリの食事は高いと言った。 私は東京と比べて別に高くはないと言った。すると、 「日本にはどんぶり物があるが、フランスにはそれに似た手軽に食える物がない。 結局コースで食うから高い」と言った。 今は裕福だが、給費留学中は苦労したんだなと思った。 食べ終わって(ワインの勢いもあり)元気が出て来た。 「俺は今から事務所に行くけど、途中で降ろしてやるよ」と言って、Bさんはカブリオレのゴルフを駐車場から出して来た。 「今日は天気がいいな。久しぶりに幌を開けるか」と言って全開にしてくれた。 風を感じながらルーブルの庭を通り抜け、ノートルダムの辺りで別れた。 日本からの手紙の受取先はBさんのアパルトマンに代えてもらい、それを受け取るため、その後何度か私はBさんのお宅にお邪魔し、食事を共にした。その度にガラスのピラミッドの図面やモックアップを見せられ、Bさんの熱っぽい話を聞いた。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2013-05-05 16:04
2013年 03月 23日
「Odyssey of Iska 1984」 21.パリ(1) リヨン駅で荷物を預けて身軽になり、TCをチェンジして小金を得、解放された気分になった。 駅のカフェで簡単な朝食を済ませ、地図をもらってメトロでサン・ミシェルに向かった。 カルチエ・ラタンに行けば安宿がたくさんあると聞いていたからだ。 地上に出ると、さらに解放された気分になった。道行く人の着ている服が皆、白で、それがパリの白い建物と青い空、緑のマロニエととても良く合っていた。 パリは白い! 特に4月のパリは白い!! それはこれまでのどの街にも感じられなかった解放感だった。 私は心から自由を味わい、弾けた。 ホテル探しは後回しにしてカルチエ・ラタンを味わうことから始めることにした。 サン・ミッシェル通りを歩いた。表参道よりは狭いが同じように街路樹のある坂道でどこかしらよく似ている。 それは自由で活気があるからだ。 表参道は若者が多く、ショッピングやカフェでお茶する人々で賑わっているが、サン・ミッシェル通りは(ソルボンヌ大学があるので)学生と観光客が多く、もっとフランクで親しみやすい感じだ。 カフェや文房具屋、おみやげ屋、ブティック、レストラン、そしてホテルと、どれもが手頃な価格で、私はこれからここをパリでの居場所にしようと心に決めた。 サンジェルマン通りも歩いた。こちらは平らなので坂道好きの私にはサン・ミッシェル通りほどグッとは来ない。それに少しかしこまってる感じだ。 サンジェルマン・デ・プレ教会のすぐそばのカフェ・ドゥー・マゴまで歩いて引き返し、今度はホテルを真剣に探すことにした。 フェリーニの「道(La Strada)」をやってる小さな映画館の隣の隣にこじんまりした小奇麗なホテルがあった。映画が観たかったのと、宿泊代も安かったので、しばらくここに滞在することにした。 部屋を確保すると急いでリヨン駅へ行き、荷物をもらって再びサン・ミシェルに戻り、チェックインした。シャワーを浴びて生き返ると外に出てレストランで食事をした。 こうして私のパリ生活が始まった。 最初はカルチエ・ラタンの探索から始まった。 サン・ミシェルのメトロの駅を上った所に「GIBERT JEUNE」という学生向けの大きな文房具屋があった。私はここが気に入り、いろんな物を買った。 あんまりいろんな物を買うのでレジで女の子から、日本にはそんな物も無いのかという顔をされた。 いや、そうじゃない、俺は単に文房具が好きなだけだと英語で言ったが、通じなかったのか怪訝な顔をされた。 パリで気持ちよくなった私は、ある日、本格的に絵が描きたいと思った。 「GIBERT JEUNE」でF6のキャンバス紙を束ねたスケッチブックと筆とインクを買い、その足でノートルダムまで歩き、大聖堂を筆で描いた。 とても愉快な気分だった。 以後、私はこの大きなスケッチブックと筆とインクを持ち歩きながら、旅先の至る所でそれを広げて描くようになった。 ノートルダムからさらに北へ行くとポンピドゥー・センターがあった。 私はこの建物が大好きで、(カルチエ・ラタンからも近かったので)よく通った。 特に図書館は大好きで、AからZまでアーティスト順に無造作に並べられた本を書庫の床に座って見ているだけで幸福な気持ちになった。 レコードのコレクションも膨大で、シドニー・ベッシュを聴こうとしたら何十枚もあり、「どれにしますか?」と言われて面食らった。 もちろん、館内の美術館はすべて観た。常設展も充実していたが、企画展のそれは尋常ではなく、毎回作られるカタログは厚さが5cmくらいあった。 建物前の広場も異常で、大道芸人のレベルの高さは多分ヨーロッパで随一だった。だから木曜日の休館日も人混みでごった返していた。 ポンピドゥー・センターから西にブールバールを渡るとレ・アールがあり、地下にfnacがあった。 本屋と音楽、映像、カメラ、家電、チケットビューローなどが複合した店で、ここへ行くとパリのライブスポットのスケジュールやヨーロッパのコンサートの情報などがいち早くわかり、よく通った。 レコードも結構マニアックなものがあり、探していた(日本では廃盤の)サラ・ヴォーンの「ライブ・イン・ジャパン」が手に入った。 そこからさらに西へ行くとルーブルがあり、この辺りまでを普段の日常的な縄張りとしながら私はパリの生活を楽しんだ。 四月いっぱいはパリにいて街を探索しようと思った。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2013-03-23 09:09
2013年 01月 26日
「Odyssey of Iska 1984」 20.パリへ 昨日のことがあったので、シルケジ駅には早めに行った。 電車に乗り、寝台車の指定された席に行くと誰もいなかったので拍子抜けした。 普通の人は夜行は寝台車を使わず、コンパートメントでそのまま寝るのだと知った。 車掌が来てチケットを見せると、うやうやしく毛布とシーツをくれ、代わりにパスポートと通過ビザを受け取った。チケットの日付は昨日だったので、何か言われたら昨日の話をしようと思ったが、何事も無く済んだ。 やがて電車はホームを離れ、大きく弧を描きながらイスタンブールを離れて行った。 これからブルガリアを抜けてユーゴスラビア(当時はまだ1つの連邦人民共和国で、その後6つの国に分かれた)のベオグラードまで丸一日かけて行き、そこで電車を乗り換えヴェネツィア、また電車を乗り換えミラノ、そこで最後の乗換えをしてスイス経由でフランスに入り、3日目の朝パリに着くというスケジュールだ。結構ハードな長旅だ。 寝台車には私一人しかいなかったので逆になかなか寝付かれなかった。 だが、やがて眠りに堕ち、気がついたら国境を越えていた。 コンパートメントにいればパスポートチェックを受けるが、寝台車なので車掌が代わりにそれをしてくれ、気がつかなかったのだ。 朝が来て、電車はソフィアに着き、寝台は畳まれ通常のコンパートメントに戻った。 パスポートも戻って来た。 昼前には国境を越え、ユーゴに入った。とたんにドヤドヤ人が乗って来る。 しばらく車窓の外の景色を見ていた。 土地がとても痩せている。 農業の匂いがしない。ユーゴは農業国ではないのだろうか? そんなことを考えているうちにトイレに行きたくなった。 通路に出ると一人のドイツ人から声をかけられた。 「今、お前のコンパートメントにいる奴らはどうも怪しい。 俺が荷物を見張っていてやるから早くトイレに行け」 そう言われてコンパートメントを振り返ると、中で二人組がニヤニヤしている。 確かに怪しい。 ドイツ人の言葉は本当だろう。 トイレから戻ると、彼は通路に立ったままコンパートメントの中をずっと監視していた。 「Danke schoen!」と言って中に入った。 おかげで何事もなく済んだ。 やがて電車はベオグラードに着き、私はヴェネツィア行きに乗り換えた。 ドイツ人はそのまま乗って行くらしく、窓から手を振っている。私も大きく手を振った。 その後は順調に進んだ、と言いたい所だが、イタリアとの国境で再びトラブルにあった。 イタリア人の係の連中がドヤドヤ乗って来てパスポートチェックを始める。 そして私のバックパックを指差し、中を開けろと言う。 開けると中からたくさんの封を切っていないエクタクロームが出て来る。 ヨーロッパで買うと高いと言われたので直前にヨドバシで150本くらいまとめ買いして持って来た奴だ。 1箱を開けろという。 開けて、「ほら、ただのフィルムでしょ?」と見せると、 太ったチョビ髭がいきなりパトローネから全部を弾き出し、 「あ〜、本物のフィルムだ」と言った。 「何をするんだ、バカヤロー!弁償しろ!!」と怒ると、 逆に何倍ものデカイ声でわけのわからないイタリア語を早口で捲し立てる。たぶん、 「俺だって仕事でやってんだ、それくらいわかんねぇのか!このトンチキ!!」 くらい言ってるのだろう。 そしてゾロゾロ次の車両に移って行った。 同じコンパートメントに乗っていたスイス人の女の子とアルジェリア人の若い男が、 「べー!!!!」としかめっ面を立ち去って行くチョビ髭達にした。 1本フィルムは台無しになったが、おかげで2人の仲良しができた。 そして思った。 たぶん、これがイタリアからユーゴに入るのであれば何もトラブルは起きなかっただろう。 貧しい国から裕福な国へ、問題のある国から無い国へ入る時にチェックはいつも厳しくなる。簡単に言えば、一種の偏見と人種差別だ。 日本のパスポートはヨーロッパでは最強だが、(つまり日本人は人に危害を加えずおとなしく金も持っているので、ヨーロッパでは一番チェックは緩いのだが、)こういうことはその後も何度か経験した。 列車はそのままヴェネツィアのサンタルチア駅に着いた。 今日が誕生日だと私が言うと、スイス人の女の子がどこからともなくケーキを買って来た。 それを駅前のグラン・カナルが見える広場の階段に座って3人で食べた。 アルジェリア人の若い男がはしゃいでダンスを踊った。 腹を抱えてみんなで笑った。 パリではなかったが、記念すべき30歳の誕生日をヴェネツィアで迎えることができた。 良かった。 ミラノ行きのコンパートメントではおもしろいことがあった。 相席した乗客が日本、スイス、アルジェリア、イタリア、フランス、ドイツと違っていたので、みんなで共通に話せる言葉が無かったのだ。 だが、それは杞憂だった。 フランス人のビジネス・ウーマン(美人だった!)が英語、イタリア語、ドイツ語、フランス語が話せたので、彼女を中継基地にしてみんなで楽しい会話をすることができた。 このビジネス・ウーマンはスーツもパリッとしていてカッコ良かった。アタッシュケースから書類を出しながら、これからドイツに行くのだと言う。 ヨーロッパで仕事をする、仕事ができる、ということはこういうことなんだなと思った。 夜になり、ミラノの中央駅に着いた。 ここで皆バラバラになり、私はスイス人の女の子とパリ行きに乗り換えるため、ガリバルディ駅にタクシーで行くことにした。(ミラノは初めてだったので地理がわからなかった。しかも夜だった) 中央駅はプラットフォームも、アーケードも、吹抜けの階段室も、これまで見たことのないくらい巨大でびっくりした。たぶん、ヨーロッパ最強の駅ではないだろうか。何しろ力強い! それに圧倒されながら下に降りると、タクシーの運転手がたくさん寄って来て、ぽん引きのように袖を引っ張り合う。 「ポルタ・ガリバルディ!」と叫ぶと、一人の運転手がすばやく車のドアを開けた。 どこから来たんだ?そうか、ジャポネーゼか。日本はいいな、仕事があって・・・ そんなことを言いながら、あっという間にガリバルディ駅に着いた。そして言った。 「20000リラだ」 「20000リラ?!!!!!」 私は仰天した。4、5分しか走っていない。それでこの値段だ! 駅の隣に警官の詰め所が見えた。 「よし、あそこに言って話をしよう!」 「ああ、いいじゃねぇか、そうしようぜ!」 そう言って、タクシーの運転手、スイス人の女の子と3人で詰め所に歩いて行った。 途中で運転手は、 「じゃ、15000リラにしようじゃねぇか?」 「10000リラじゃだめか?」 「エエ〜イ!5000リラでいい!」 「だから日本人は嫌いなんだ、ケチ臭くてヨ〜!」 みたいなことを言いながら、詰め所の前で突然踵(きびす)を返して車に逃げ帰った。 それを見ながら警官が、 「あいつは白タクで、いつもああなんだ。困った奴だ」 と言った。 おかげでタクシー代はタダになった。 スイス人の女の子は夜中にローザンヌで降りた。 私はまた一人になった。 だが、淋しくはなかった。 もうすぐパリに会えるので少し興奮したのか、明け方から外の暗い景色をずっと見ていた。 朝の光が窓に差し込み、その暖かさで少しまどろみかけた頃、電車は静かにパリのリヨン駅に着いた。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2013-01-26 17:59
2012年 12月 22日
「Odyssey of Iska 1984」 19.イスタンブール(3) イスタンブールは東ローマ帝国の首都として栄えた。 東ローマ帝国の滅亡は1453年だが、征服したイスラムはさらにこの街を荘厳な街に育て、世界で一番美しい街にした。 それはガラタ橋の袂で周囲をグルリと見渡せばすぐにわかる。 多くのミナレットに囲まれた巨大なドームのモスクが至る所に見える。 ヨーロッパの他の都市では体験できない宗教の香り漂う街だ。 だが、現在は車の排気ガスと船の黒煙で薄汚れた街だ。 ローマと同じだ。過去の遺産で食っている。 現代の物で見るべき価値のある物は何も無い。だったらモスクをひたすら見よう。 始めにガラタ橋の袂にあるイェニ・モスクに行った。 丁度夕方の礼拝の時間で、多くの信者が祈りを捧げていた。とても写真を撮れるような雰囲気ではなかったので、背中とお尻が同じリズムで動く様を後からスケッチした。 建築的に驚いたのは中と外とのギャップで、外から見るととても複雑な泡ぼこの塊のように見えるのに、内部はたった4本の柱だけで、あとは外壁に力が逃げて、とてもシンプルな大空間だった。 な〜んだ、ミースのユニヴァーサル・スペースはとっくの昔にできてたんだ、と思った。 内部はイコンを禁じるイスラム教の教えで幾何学的だが装飾が少なく、少し物足りないくらいだった。その中にあって天井から低くぶら下げられた天蓋のような照明が異彩を放っている。これが無ければスッキリするのにと思う反面、無いと増々殺風景な感じになるのかなと思った。 次にスレイマニエ・モスクに行った。 これを設計したミマール・スィナン(シナン)のことはヨシザカの本で読んでいたので知っていた。このモスクをオスマン建築の最高傑作に挙げる人は多いが、確かに力強い建物だ。これでモスクの様式は完成したのかもしれない。 これをさらに発展させ、ミナレットを増やして華麗にしたのがブルーモスク(正式名はスルタンアフメト・モスク)だろう。確かに夕暮れの中で見たブルーモスクはとても美しかった。だが、なぜか私には完璧過ぎて、惹かれなかった。 洗練されたロココよりもそれを生み出したワイルドなバロックの方に惹かれる、と言えばわかりやすいだろうか。 そのほか、ホワイト・モスク(エユップスルタン・モスク)やファーティフ・モスク、スルタン・セリム・モスク・・・と見て行った。 こうしたモスク巡りをしながら、一方で私の頭の中はイスタンブールを旅立つ日のことを考えていた。 実はこの放浪を始めるにあたって唯一決めていたことがある。 それは30才の誕生日をパリで迎えることだ。 そこから逆算して旅のスケジュールを調整していた。 イスタンブールからパリまでは2日半かかる。 ブルガリアの国境を抜けるためのビザはTさんから既に受け取った。 あとはイスタンブールからユーゴとイタリア国境までの鉄道のチケットだけだ。 イスタンブールのシルケジ駅に行き、時刻表を見せながら、 「この通りに汽車は発車するんだな?」と念を押した。駅員は 「そうだ」と答えた。 私は2等の寝台車のチケットを買い、それをユーレイルパスと共に大切にしまった。 当日はゲストハウスの仲間達にお別れをした後キリムの店にも行って仲良しになった売り子達とお別れをした。もちろんTさんや彼女の息子ともお別れをした。 思い残すことはほとんどなかったが、唯一の後悔は(毎日その前を通りながら)とうとうアヤソフィアを見学できなかったことだ。いつでも見れると思ったのが失敗だった。 だが、また来るかもしれない。いや、アヤソフィアを見に必ずまた来よう。 そう思って駅に向かった。 さよなら、イスタンブール。 そして電車に乗った。(そのはずだった) だが、なんと、私の乗るはずだった電車が今まさに動き出し、駅を離れようとしているではないか! 呆然とその後姿を見送りながら、怒りが込み上げて来た。猛然と駅務室に向って言った。 「なぜ、電車は定刻より前に発車したんだ!?」 「それは今日から時刻表が変わったからだ」見知らぬ男がそう答えた。 私は先日の男の似顔絵を描いて言った。 「こいつがこの時刻で大丈夫と言ったからチケットを買ったんだ。こいつに合わせろ!」 するとその男は似顔絵を見てニヤリと笑いながら答えた。 「そいつは今日は休みだ。そして明日も休みだ」 身体中から力が抜けた。 こうしてパリで誕生日を迎えるという私の夢は呆気なく消えた。 だが結果的にそれは吉と出た。 アヤソフィアと、スレイマニエも2回見れた。 特にアヤソフィアは凄かった。 私はこれまでこんな不思議な建物を見たことがない。それは生成する過程と消滅する過程を同時に見せてくれる、イスタンブールに生息する生き物のようだった。 外観は少し歪(いびつ)で、内部も少し歪んでいて、中央の円蓋は完璧な円でないことはすぐにわかったが、そんなことはどうでもよかった。むしろ、この稚拙さからこの大空間を獲得して行くまでの格闘とそのプロセスがひたひたと身体で感じられた。 一見するとドーム型のモスクに見えるが、よく見るとバシリカと集中式が合わさった教会様式で、それがイスラムに占領された後にむしろ彼らに影響を与えてスレイマニエやブルーモスクが生まれたことがよくわかった。 内部の装飾も所々にビザンチン(東ローマ帝国)のモザイクが残っていて、それとイスラムの文字や平滑なスタッコが合わさって濃密だった。 歴史や文化の入り交じった複雑なスペシャル料理を味わうような感覚だった。 いつまでも味わっていたかった。 建物から出て、夕暮れの中でもう一度振り返りながら思った。 神様はこれを俺に見せるために、パリ行きをわざと一日遅らせたんだな。 イスタンブールの宝物を見て行けと・・・ かずま #
by odysseyofiska4
| 2012-12-22 21:50
2012年 10月 29日
「Odyssey of Iska 1984」 18.イスタンブール(2) 「ミッドナイト・エクスプレス」(‘78)というとても恐い映画があった。 麻薬所持でトルコで捕まった主人公が過酷な状況の中から脱出するまでの物語なのだが、その冒頭のイスタンブールのシーンが何とも言えないくすんだ(少し緑がかった)灰色で、私は勝手にイスタンブールカラーと呼んで憧れていた。そして、それはボスポラス海峡の湿った空気がもたらす自然現象なのだろうと勝手に想像していた。 違う!! 現地に来てよくわかった。それはただ車の排気ガスと船の出す黒煙で空気が汚れて色が変わっただけの話だ。その証拠に、早朝は青空さえ臨める。だが、午前10時ともなるとガスと黒煙でどんどん変わり、くすんで行く。 私はゲンナリした。 ゲンナリしたと言えば、チキンライスにもゲンナリした。 あるレストランにランチタイムに入ったら、メニューに「チキンライス」とあった。 トルコ料理(ギリシャ料理よりケバブの臭みが強い)に少々食傷気味だった私は、内心(しめた!)と思い、それを頼んだ。 だが、ふと心配になり、ウェイターを呼んで、 「チキンライスはこういう形をしていて、トマトケチャップでこういう色をしているのか」と絵を見せながら念を押した。 ウェイターが「そうだ」と言うので安心して待った。 しばらくするとチキンライスが半円球のボールに入ってやってきた。 ウェイターがボールを取るとその姿が現れた。 だが、それはライスの上にチキンの肉の塊が乗り、その上にトマトの切れ端とパセリが添えられたものだった。 確かに、チキンとライスとトマトだ。 だが、俺の頼んだチキンライスとは違う!! おまけに「Without Gas!」と言って頼んだ水は、エビアンのガス入りだった。 こういうことはしょっちゅう起こった。 トルコ人は言葉の正確さはどうでもいいのだろうか? ただ、ビールやワインはどこでも簡単に飲めた。(これは私にはとてもよかった) イスラムの国だが、戒律上のイスラム色は強くはなかった。 驚いたのは、町中で銃を持った兵士が歩く姿をよく見かけたことだ。 治安が悪いのだろうかと最初は思ったが、長くいるとそれほどには思えなかった。 ただ、インフレは凄かった。お金は小型の紙幣ばかりで、コインは見なかった(価値がすぐに無くなるので、印刷する方が便利なのだろう)。しかも使う度におつりで数が増えて行き、ポケットが一杯になった。輪ゴムで結わえて使う人もいた。 狭い路地裏では至る所で子供達がサッカーをしていた。しかも皆上手い! そのうちトルコは世界のサッカー強国になるだろうと確信した。 トルコは親日で知られているが、だからだろうか、日本人の観光客を多く見かけた。 ガラタ橋の下のフィッシュ・レストランで食事をしようとしたら、日本人のかわいい女の子二人組みと偶然出くわした。で、一緒に食事をすることになった。 話をしたら、二人とも学生で、トルコを数週間旅行していて、イスタンブールが最後の地点だと言う。 驚いたのは、一人の女の子(慶応の2年生だと言った)は海外旅行は今回が初めてで、 「なぜ、トルコなの?」と訊いても、「さぁ、何ででしょうね〜? 偶然ですかね〜?」などと言う。 このフィッシュ・レストランにしたって、けっして奇麗とは言い難い場所だ。そこに一見お嬢様風のかわいい日本人の学生がやってくる。 頼もしいと言うか、恐ろしいと言うか、世の中変わったもんだと思った。 (もちろん、良い意味でだ) イスタンブールという街は不思議な街で、ボスポラス海峡を挟んでアジアとヨーロッパが接している。 私は日本を飛び立つ時にもう日本には戻らないだろうと思った。 だからイスタンブールに着いてもアジア側には絶対行かないつもりだった。 だが、最初に乗った船は、行き先を間違え、アジア側に着いてしまった!!! ちゃんと聞いたのに、だ!! 私はますますトルコ人の言葉の正確さを疑うようになった。 その最たる出来事はイスタンブール最終日に起きた。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2012-10-29 23:12
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