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2014年 04月 20日
「Odyssey of Iska 1984」 27.ラ・トゥーレット パリからTGVに乗り、2時間程でリヨン・パーデューに着いた。 2月の終わりはそのままローマに向かったが、今回は下車してホテルを探した。 翌日、ラ・トゥーレットの修道院に行くために。 駅前のポストモダンの街並を抜けてしばらく歩いた所に駅のインフォメーションで教わった安ホテルがあった。 荷物を降ろしシャワーを浴びると腹が減ってることに気づいた。 街に出て、5月の風を感じながら屋外で食事をした。 次の日は朝から雨だった。早めにホテルを引き払い、電車でラルブレルに行った。 駅で降りても地図が無いので、どこに修道院があるのかわからない。 おまけに雨だ。 滅多にやらないことだがタクシーをつかまえ、「Couvent de la Tourette!」と叫んだ。 すると運転手は「ああ、ル・コルビュジェか!」と言って山の方に向かって発進した。 ほどなくしてあの外観が現れた。 玄関のピロティ下で降ろされ、タクシーが去ると、再び一人になり、雨の音しか聴こえない。目前に広がる中庭の光景を眺めながら建物の内に向かって叫んでみるが、何の反応もない。 今日はお休みなのかしらんと思いながら中に入って行く。 暗い室内の壁にわずかな自然光が差し、修道院らしい雰囲気が濃密だ。 祈祷堂に入る。 コルビュジェらしい、キュービックな平面に傾斜のきついトンガリ屋根が載った暗い部屋で、意外と狭い。そこに屋根に突き刺したトップライトから光が差し込み、これまた修道院らしい。 中庭を縦断する回廊に出ると、途端に明るい光が軽快なサッシの模様を床に映しながら差し込み、まるで音楽のようだ。 このアイデアやカノン・ルミエール(光の大砲)、そして後のフィリップス館('58)を発明した、担当のクセナキスはやはり天才だ。音楽が視覚化され、体感されている。 回廊をそのまま歩き、チャペルに入る。 大きな直方体のボワ~ンとした空間でひどく暗いが、主祭壇との段差や礼拝堂のカノン・ルミエール、いろんな所に空いてるスリットやアルコーブ、鮮明な色彩、細かな仕掛けのディテールなど、注意深く見て行くと見飽きない。 そばには誰もいないので自己流の讃美歌を歌ってみる。 残響がひどく、倍音がたくさん聴こえる。 通常の教会なら×だが、ここは修道院で僧を育てる場所だから讃美歌は歌わないのだろう。 しばらくその場の静寂に佇んだ。 寒くなって来たので食堂に行く。 何人かの僧と見学者らしき人達がテーブルに座って静かに話をしている。 私もテーブルに座って外の景色を眺めながらホットミルクを飲む。 冷え切った身体に温かい液体が流れ、生き返って行くのを感じる。 窓の外には緑の美しいシークエンスが広がり、しばらくそれをボーッと見ていた。 そのうち雨が上がったので、緑の斜面に出て、外から修道院を眺める。 結構、急な斜面だ。その割にピロティの柱や壁は華奢だ。日本だったら無理だろう。 自然の地形をいじらず、その上に人工物を置いて対比的に扱うやり方はいかにもコルビュジェらしい。 コルビュジェの代表作を一つ挙げろと言われたら、たぶん私はこの建物を挙げるだろう。 コルビュジェ言語がほとんど網羅された上に濃密だ。 簡単に言えば初期の代表作のサヴォワ邸に肉が付いた感じだ。その分深みは増している。 これが発表された当時、世界はどんな反応をしたのだろう。 そんなことを考えながら丘を下っていったら、やがてラルブレルの駅に着いた。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2014-04-20 17:13
2014年 04月 14日
「Odyssey of Iska 1984」 26.パリ(6) カステル・ベランジェに行った。 パリで最初のアール・ヌーヴォー建築で、ギマールが28才の時に設計した建物だ。 アール・ヌーヴォー建築をつくったのはギマールではなく、ギマールはベルギーでオルタの建物を見てこうした植物的で有機的なデザインを始めたのだが、創始者の生みの苦しみを知らない分だけ軽やかで華麗だ。(パリに残るメトロのゲートのデザインは特にそうだ) この36戸のアパートもプランがすべて異なり、外壁のデザインにそれはよく表れている。だが、さすがにこの頃はまだ重い。 ただ、入口の門扉のデザインは既に、ギマール全開!という感じで自由奔放だ。 建物の前でスケッチをした。 それを終えてレストランでランチをし、コーヒーを飲みながら地図を見ていたら、そばにコルビュジェのラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸のあることがわかった。 私は大学時代にコルビュジェのイレギュラーカーブについて細かく研究したことがあり、それを通してコルビュジェの建築は私なりに決着が付いたような気がしていた。 それに、ヨーロッパに来たのは建築を辞めて次に何をやるかを考えるのが目的だったので、今さらコルビュジェなんて・・・という気がしていた。 だが、その日は別段やることも無く暇だったので、行くことにした。 ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸('24)は路地の奥にひっそり佇んでいた。 ドアをノックすると若い男が、見学は可能だが有料だと言った。 同意して中に入った。既に若い何人かの建築家の卵が見学している。 いきなり吹き抜けの空間で始まり、天上高は結構高い。 2階に行くと有名な円弧状のスロープが見える。傾斜は1/6くらいで、とても急だ。 白い壁面にコルビュジェのリトや絵が整然と飾られ、ギャラリー然としている。 初期のコルビュジェはこの時点で既に完成していることがよくわかる。 これだけなら「やっぱりそうか」の確認だけで、事件は起こらなかった。 屋上に上がり、屋上庭園を見た。 びっくりした。 それまでとは一変して、庭木がその場に散乱するかのように咲き乱れ、通路とベンチのワイルドな構成、周りの景色と有機的に絡まっている。 コルビュジェはこの時点で既に爆発していた。 時間と共に有機的に変化して行ったのではなく、最初からそれは在ったのだ。 私はコルビュジェを見誤っていたことに気づき、俄然コルビュジェに興味が湧いた、というか、火がついた。 翌日、パリ救世軍本部('33)を見に行った。 可動中でロビーと外観しか見れなかったが、コルビュジェの才気と躍動感は十分に感じ取れた。特にロビー内の変化に富んだ光の採り入れ方や、サッシやガラスブロックの使い方、カラフルな色彩は有機的な感じがした。 スイス学生会館('32)やブラジル学生会館('59)、サヴォワ邸('31)も見た。 そしてとうとうそれだけでは飽き足らなくなった。 私はコルビュジェのすべてを知るために再び旅に出ることにした。 私の April in Paris はこうして終わった。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2014-04-14 18:43
2013年 08月 31日
「Odyssey of Iska 1984」 25.パリ(5) レ・アールの地下にあるfnacに行くといつも新しい情報が手に入った。 とりわけ重宝だったのはジャズのライブ情報で、ここで私は「New Morning」という店を知った。 この店は歴史は浅いのに、どういうわけかジャズの大物、とりわけレジェンドとしか言いようのない人達がラインナップに並んでいて、毎月のスケジュール表を見る度に驚愕した。 ミュージック・フィーは2500円くらいで、ヨーロッパでは高い方だが(顔ぶれからすれば東京よりは断然安く)、長旅からパリに戻ってくる度に、時間が合えば聴きに行った。 私はここでスタン・ゲッツ、マックス・ローチ、カーラ・ブレイ、アストラッド・ジルベルトを聴いた。 スタン・ゲッツを聴きに行った時は期待半分、不安半分だった。 以前、手抜きのライブをして、「スイング・ジャーナル」で酷評された記事を読んでいたからだ。 不安は的中した。 ゲッツは黒いスーツ姿でジェントルに決め、観客の声援に応えながらスタンダード曲を吹き始めたが、お決まりのコード進行とお決まりのフレーズという感じで、真剣さが伝わって来ない。だいたいロングフレーズが少なく、少し吹くとすぐにサイドメンに渡してしまう。 時折その出っ張り始めた腹を前に出し、反り返っていかにも「テナーを吹いてるぞ〜!」というパフォーマンスをするが、どこか見え透いている。 観客はゲッツの一挙手一動に歓声を送るが、私は正直冷めてしまった。 ボサノバも演ったが、「ゲッツ/ジルベルト」のあの入魂のプレイからは遥かに遠かった。 マックス・ローチはそれよりはマシだった。 きちんと叩いていたし、手抜きはしなかった。 全員スーツにネクタイ姿の正装で演奏した。 ただ、サイドメンも含めて、出来は普通だった。というか、サイドメンは正直どうでもよかった。あの、バド・パウエルやロリンズと競演した、レジェンドであるマックス・ローチしか見ていなかった。 途中で「Moanin'」を演った。その時ローチがなぜだか卑猥な笑いを浮かべた。 そしてその時だけドラミングが雑になった。ブレイキーを意識したのだろうか。 一番よかったのはカーラ・ブレイだった。 スティーブ・スワロー(b)とのデュエットで、けして聴き易くはないがテンションの高い演奏を繰り広げて、おもしろかった。 ただ、とても残念だったのは、演奏の途中で前の方にいた日本人の女性カメラマンが赤ら様にシャッターを押したことで、それに対しカーラは露骨に嫌な顔をして、跳ね除けるような仕草をした。曲が終わった瞬間は拒否反応さえ示した。するとスティーブがマイクを握ってフランス語と英語で諭すように、演奏中の撮影はご遠慮願いたいと言った。これで事なきを得、演奏はそのまま進んだが、私はとても恥ずかしかった。 日本人がほとんどいないライブスポットだったので、余計恥ずかしかった。 アストラッド・ジルベルトは多分二度と聴きに行かないだろう。 あんなに聴いててハラハラした歌手は初めてだった。 声は頼りないし、音程は外すし、聴いててずっとドキドキしながら(がんばれ、がんばれ)と心の中で念じ続けた。 身体に良くない。 私がお金をもらうのなら別だが・・・ パリだけでなく、ヨーロッパを放浪中は至る所でジャズを聴いた。 ロンドンでも、ベネチアでも、マドリードでも、モントルーでも。 でも、パリは一番ジャズが似合う街だ。 もちろん、ニューヨークやシカゴ、サンフランシスコとは違う意味で。 ジャンゴやステファン・グラッペリの時代から独特な匂いのジャズを育ててきた。 その香りは今でも残っていて、パリジャンはそれを文化として深く愛していた。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2013-08-31 23:18
2013年 08月 03日
「Odyssey of Iska 1984」 24.パリ(4) パリは一見古い街並に見えるが、実はそれほど古くはない。 オスマンが1853年に知事になり、パリ市街の大改造をおこなった。 路地裏を取り壊し、東西南北に大通りを通し、ランドマークとなる建物どうしを道路で結んで都市の視覚化を計り、上下水道など目に見えないインフラを整備した。そしてルーブル宮の改装やオペラ座の建設などをおこなった。 つまり、それは160年前に始まったことで、江戸末期から明治初期にかけて大きく変わったのだ。 パリが新しい街だと感じるのは、ローマと比べて1階の立端がそれ程ではなく、合理的な造りで、屋根の高さや形状が揃ってファサードが全体的に整った印象を与えるからだ。 道路も広く、そして(何度も言うようだが)白い!! だんだんパリ生活にも慣れて来たので、そろそろ観光見物でもしてみようかと思った。 エッフェル塔に行った。 東京タワーと違って真下は道路が走っていて他には何も無く、軽やかで美しい。 これができた当時(1889年)は野暮で武骨で醜悪だと酷評されたが、実物を見るとレース模様のようなものがたくさん付いてて、とても装飾的だ。 時代が変わるとこんなにも美意識は変わるものなのか! 4つの足元から斜めに上るエレベータが新鮮でおもしろい。 展望台に上って驚いたのは、吹きさらしで直接風を感じられることだ。 手摺も簡単な物で、現に隣のカップルは落ちるポーズをとりながらふざけ合っている。 実際、自殺者も多いらしい。だが、それでも簡単な柵と網しかなく、日本とは大違いだ。 この辺が、自己責任の国と、他人へ責任を転嫁する国との違いだろう。 責任は自分で取らなければならないが、その分自由で気持ちがいい街だ、パリは。 よく言えば個人主義が徹底していて、変にベタベタした所がない。 それがエトランジェ(異邦人)である私には心地良い。 ルーブルに行った。 無料で入れる日があると聞いたが、行った日は有料だった。 入口がわかりにくく、手間取った。おまけに昔の宮殿をそのまま利用しているので館内はとてもリニアでわかりにくく、北と南にウィングが分かれているので、観たい物をさっと観るのは不可能だった(だからガラスのピラミッドを真ん中に造って、地下で交通整理して不便さを解消しようとしているのだが・・・) ジョコンダ(モナ・リザ)の前は黒山の人だかりで、ただでさえ人混みの嫌いな私は近づいて観ようという気が起こらない。むしろ、それをかき分けて観ようとする人を見ている方がおもしろい。(とは言っても、さすがに観ないで帰るのは癪なので、)最後は意を決して観た。だが、ガラスの向こうにある絵のディテールをしげしげ視る気にはならなかった。単に見た、というだけで、特別な感慨は起こらなかった。 ミロのヴィーナスのある場所はあまり良い場所ではなかった。光がもう少し美しく当っていれば、俄然印象は違って見えただろう。 その点、サモトラケのニケは大空間の階段の踊場にあり、美しい光の中、視線を一身に集めて抜群だった。置かれた場所でこんなにも印象が変わるのかと思った。 ルーベンスの巨大な絵が大きな壁面にたくさん並べられた部屋があった。これらは王侯貴族の宮殿を飾るために描かれた絵なのだろうが、ただデカイだけで、私は少しも感動しなかった。 絵は大きさではない。やはり中味だ。内容とそれに見合った技術や独自のタッチがあれば小さな絵でも感動する。ルーベンスはバロック最大の画家ではなく、一番大きな絵を描いた画家に過ぎない。レンブラントやベラスケスと同列とはとても思えない。 と悪態をついていたら、そこにドヤドヤ日本人の団体が入って来た。 皆、ガイドの言うままに頷き、感心し、お行儀よく次の部屋に移動して行く。 アメリカ人の団体が入って来た。 皆、点々バラバラで、自分の好き勝手な所を見ては隣の人と話をしながら次の部屋に移動して行く。(マイクランジェロ、マイクランジェロと言っていたが、ミケランジェロの話をしていたのだろう) ドイツ人の団体はまるで学校の授業のように皆真剣で、メモを取る人さえいる。 一番デタラメでちゃらんぽらんだったのはイタリア人とスペイン人の団体だ。 お国柄はこういう所にも出る。 ルーブルで気に入ったのは、館内で実物を模写している素人の画家が何人もいたことだ。 さすが芸術の国は違う!! こういう気風は何かを育てる。 私もパリにいる間は芸術家でいよう!! 翌日、モネの「睡蓮」を観に、ルーブルの西にあるオランジュリーに行った。 ここは元々テュイルリー宮殿のオレンジの温室(オランジュリー)だったが、モネの「睡蓮」の連作を展示するために美術館に改装された。 楕円形の壁一面に「睡蓮」が並んでいる。 絵は具象なのに、一つの画題に絞ってそれだけで埋め尽くされた空間から受ける印象は抽象だ。そしてとても快い。いつまでもいたくなる空間だ。 私はそこに30分程ボーッとしながら佇んでいた。そして本当に眠くなった。 芸術はあまりに快くなると眠くなる。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2013-08-03 23:04
2013年 07月 14日
「Odyssey of Iska 1984」 23.パリ(3) パリの移動はメトロが便利だ。だからいつもカルネ(10枚チケット)を買って持ち歩いた。黄色のチケットで、1枚当り75円くらいだった。これでほとんどのゾーンは行けるし、少し郊外に行く時はもう少し高いオレンジ色のチケットを買えばいい。 メトロの路線図はとてもグラフィックでわかりやすいので、いつもパスケースの中に入れて時々それを見ながら移動した。 駅の名前も人の名(フランクリン D ルーズベルト、ヴィクトル・ユゴー、エミール・ゾラ、アナトール・フランス、パスツール)や広場の名(バスティーユ、レピュブリック、コンコルド)、橋の名(ポンヌフ、ポンマリー、ミラボー)、有名な建物(オペラ、ルーブル、マドレーヌ、アンヴァリッド)など特徴的で、地上に出れば何があるか容易に察しがついた。 初めてメトロに乗った時に驚いたのは、席に着いた途端(日本ではありえないことだが)トイ面の黒人からバシッと顔を合して見つめられたことだ。隣の人を見ると同様にバシッと見つめて来る。別に私の顔が変だとか危害を加える顔をしているとは思わないが、こうもバシッと目を合されるとこちらも(別に悪いことはしていないので)バシッと見返すことになる。しばらく睨めっこが続き、相手が根負けした時にこちらも力を抜き、同時に目をそらす。そういうことが何度かあった。(パリ以外のヨーロッパの都市でもよくあった) また、メトロを降りて地上に上がる途中には必ず風を遮る開閉扉があり、それを前の人が開けて持っているので「Merci!」と言って代わりに持ち、次の人が「Merci!」と言ってバトンタッチするまで皆持っていてくれる。 最初はなんて素敵なマナーなんだろう!と思ったが、ある時、これは狩猟民族が闘いの中で培ってきた平和を維持するためのチェック機構ではないかと思い始めた。 (それをやらなかった若者を老人が睨み返すのを見て、ますますそう確信した) 先の睨めっこも、狩猟民族時代の相手をチェックする習性の名残と思えば合点が行く。 日本人はマナーが悪いとよく言われるが、要するに平和なのだ。 パリのメトロでは改札口を平気で飛び越えて行く無賃乗車の若者を何度か見た。 それくらいなら駅員も「困った奴らだ」と苦笑いしながら見逃すが、 ある時、必死の形相で構内を逃げ回る若者を見た。 それを追いかける警備員の形相も必死で、唯事でないことはすぐにわかった。 何があったのだろう? あの若者は捕まったのだろうか?・・・・・(たぶん) また、列車が駅に着くといきなり中に入って来て歌や演奏を一曲披露し、お金を集めた後「Merci!」と言って次の駅で降りる若者や、構内の一角でバイオリンやフルートを弾いてお金を集める人をよく見かけた。 こういうアマチュア演奏家に対しパリジャンはとても寛大で、たとえ上手くなくともポケットから気前良くお金を出して帽子に入れた。 さすが、芸術の都は違う! 私はヨーロッパの街はどの街も自分の足で歩いて、身体で感じながら(対話しながら)身体で覚えて行ったが、さすがにパリの街は大きい(と言っても、カルネで行けるメインの部分は山手線の内にすっぽり入る大きさだ)なので、その日見る部分の拠点の駅までメトロで行き、地上に出ると後はひたすら歩きながらパリの街を理解して行った。 私が街を見て行く順序はだいたい決まっていて、最初に地元の人が行くレストラン、カフェ、バー、教会、街の本屋、レコード屋、雑貨屋を見て回り、次にギャラリー、美術館、博物館、ライブスポット、名所と続き、最後に「ああ、ここには誰々の建物があったな」という感じで現代建築も申しわけ程度に見て行った。 建築を辞めようと思ってこちらに来たので現代建築を見るのは少し煩わしかったが、さりとて見ないで立ち去る程嫌でもなかった。(パリに着いた時から、どうせコルビュジェは最後になるだろうと思っていた) パリでは景色の良い四つ角には必ずカフェがあり、楽しそうに語らう人の姿があった。 その前を美人が通ろうものなら、会話はそのままに、目だけは右から左へ全員同じスピードで動いて行った。私はこんな光景を何度も見ながら、 「フランスは「見る」と「見られる」の関係でできてる国だな」と思った。 ロラン・バルトは日本のことを「表徴の帝国」と言ったが、それに習うなら、 フランスは「表装の帝国」だ。 だからファッションが発達し、絵画が発達し、言葉が発達した。 日本は「見てはいけない」国、見ないで想像する国だったので、隠喩や暗喩が発達した。 だが、それにしてもパリは白い。そして美しい。 アンドレ・マルローが文化相だった60年代当時「街を洗って昔の美しさを取り戻そう」と言わなければこうはならなかった。 ポンピドゥー・センターだって彼の「空想の美術館」が始まりだ。 やはり美に対する感覚のある人間を政治の中枢に据えることは大切で、国の見え方が違って来る。 そんなことを考えながら、私はパリジャンが着ている白い服が欲しくなった。 「オー・プランタン」に行った。 そして白いジーンズのジャケットを買った。 黒い皮のジャケットはそれから先パリにいる間は着ることは無かった。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2013-07-14 22:59
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