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2014年 08月 01日
![]() 「Odyssey of Iska 1984」 42.バルセロナ(1) 再びバルセロナに向かう列車の中で、なぜあのような事件が起きたのかを考えた。 結論は慣れによる怠慢、過信による皮膚感覚の誤差だった。 私は元から皮膚感覚でものを考えるタイプの人間なのだが、一人でヨーロッパを放浪していく内にそれがさらに研ぎ澄まされて、危険を察知すると自然と毛穴が閉じて防御したり、安全だと毛穴が全開して無防備なくらい全身でものを感じたりするようになった。 そういうことを3ヶ月ほど続ける内にやがて慣れてダレが生じた。 おまけにコートダジュールやカルカソンヌで開放されて隙も生じた。 荷物や金を盗まれたぐらいで済んでよかった。むしろ、こういう注意を喚起してくれた犯人に感謝しなければならないかもしれない。 別に感謝を言いたいわけではないが、もう一度そいつに会ってみたい、そう思った。 私は好奇心に促されてサンツ駅を降りた。(今度は昼間の明るい内に着いた) あの時目指していたホテル・ガウディはランブラス通りの事件にあった場所から歩いて5分くらいの所にあった。もう少しで登頂という時に遭難したようなものだ。 なぜホテルの名がガウディかというと、目の前にガウディの設計したグエル邸があるからだ。フロントで聞くと、幸運なことに通り側の二人部屋が掃除中で、室内からカーテン越しにそれが見えた。一人部屋は中庭側だったが、1週間程泊まることにした。 シャワーを浴びて街に出た。 ランブラス通りを歩いていると、子供の背丈ぐらいある大きな緑色の丸いボックスが通り沿いにポツンポツンとある。(それはワインの瓶の回収ボックスで、無いと平気で道端に瓶を投げ捨てて危ないからだと後で知った) おもしろいのでカメラを向けると、その隣にいた二人組の女が通り越しに大きな声で怒鳴りながら「撮るんだったら金をくれ!」というジェスチャーをする。 そばにいた人が、彼女らは娼婦で、あの裏通りは娼婦街だからあまり近づかない方がいいと教えてくれた。 ホテルで教わったレストラン「ロス・カラコレス」は通りから入って少しの所にあった。 鳥を焼くいい匂いが道に充満していて、それだけで入りたくなる。ドアを開けると食材のぶら下がった厨房の横を通り抜けるようにして客席に向かう。常連客はこの食材を見ながら今日は何を頼むか考えるのだろう。店の自信を感じた。 2階の席に着いて頼もうとメニューを見ると、パエリャが2種類ある。パエリャ・デ・マリスコス(海の幸のパエリャ)とパエリャ・デ・バレンシア(バレンシア風パエリャ)だ。 「どっちが美味い?」と訊くと、「そりゃ〜、マリスコスさ!」の答え。 バルセロナは港町だ。俺達のパエリャが本物のパエリャだぜ!という気概が伝わってくる。 結局、マリスコスとシーフードサラダ(私の大好物だ!)とサングリアを頼んだ。 サングリアは大きなピッチャーに入って、1リットルくらいある。それをグビグビ飲みながら、始めに出てきたシーフードサラダと店の名前の由来でもある「かたつむり」の形をしたパンを頬張っていると、前の席にいたドイツ人がくるりと振り返って、お前はよくその1リットルが飲めるな、俺は昨晩それを飲んで今日は頭痛のしっ放しだ、と言った。 そうかい、俺はスペインとは仲がいいんだ、と笑って私は返した。 実際、サングリアは果汁が入って飲みやすく、その分危険だと言える。が、度数も少しは下がるだろうからあまり気にしたことはない。要は自分の調子を見ながらその時に合った量を飲む、ということだ。 パエリャが出てくる。マドリードで食べていたパエリャはバレンシア風だが美味かった。だが、ここのはもっと美味い!これからは絶対マリスコスだな!と思った。 この店は気に入ったので、バルセロナに滞在中は何度か行った。 そのうちの何回目かに行った帰りに通りであの女を見かけた。 相変わらず痩せた禿鷹のような顔をしている。黒い革ジャンを着て、乳母車を押してない分精悍な感じがした。私に気づかずそばを通って行ったが、獲物を探していたのかもしれない。 その夜、夕食が済んでから事件があった辺りを散歩した。そして、そこから少し坂道を上った交差点でとうとう彼奴を見つけた。 一月前の事件の時は気の弱い痩せた若者に見えたが、通りの向こうにいる奴はまるで違っていた。獲物を探す鋭い目をした狼のような顔をしていた。そして顔は動かさず、目だけで道行く人を物色している。 私がジッと見つめているのでとうとう向こうも気がついた。 目が合った。 そして奴も私が誰だか気づいた。 だが、表情一つ変えず、不敵な態度でこちらを見つめている。 そのまま30秒くらいずっと見つめ合う状態が続いた。 私はふと奴は逃げないのではないかと思った。 ホテルはすぐそこなので、カメラを取って返せば奴を写せるかもしれない。そう思った。 逃げるなよ、逃げるなよ、と念じながら奴を見つめ、急いでホテルに帰ってカメラを持って戻ったが、奴はもういなかった。それから毎晩同じ場所に行ってみたが、奴は現れなかった。 その晩、悔しかったので、指名手配の張り紙をつくろうと思い、奴の人相描きを描いた。 1枚目を描いたが、うっぷんが晴れない。 2枚目を描いたら、ますます晴れない。 3枚目、4枚目と描いていったら、どんどん顔が中央から分裂していって、ピカソのような絵になった。 「この男は悪い泥棒です。見かけたら警察に連絡してください」という言葉をフロントでスペイン語に訳してもらい、それを絵に加えた。 バルセロナには1週間いたが、発つ時、4枚をコピーして縦長の張り紙をつくり、奴がいたそばの樹に張った。 しばらくするとワイワイガヤガヤ黒山の人だかりができた。 それを遠くからカメラに撮って、少しだけうっぷんを晴らした。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2014-08-01 17:04
2014年 07月 24日
![]() 「Odyssey of Iska 1984」 41.パリの休息 パリに戻ると旅の疲れがどっと出た。 動き続けるということはエネルギーを予想以上に使うものだ。しかもある種の緊張感の持続が必要な旅を続けた場合はなおさらだ。 私はパリに戻ると緊張感からどっと解放される。 それはパリが好きで、私の身体がパリに親和するからだ。また、パリが東京と同じような感覚で日常生活を過ごせる都会で、自由だからだ。 映画を観たり、美術館に行ったり、デパートで買物をしたり、Jazzを聴いたり、カフェで道行く人をボーッと眺めたり、街の常連さんがいるレストランで食事をしたり、そんなありきたりでたわいもない日常を繰り返すうちに再び旅を続ける活力が戻って来る。そして準備をし、また旅に出る。そして1ヶ月から1ヶ月半の旅の後再びパリに戻り、また休息する。 結局こういうことを6回やって、私は何とかヨーロッパを一通り学習することができた。 パリは私にとって観光の街ではなく、休息して復活する街にいつの間にかなって行った。
パリの建物はほとんどが高さ制限、斜線制限ギリギリにつくられているので、7階は室内の壁が傾斜した屋根裏部屋だ。実は前からそこがお気に入りで、泊りたいと思っていた。 最低限の設備だが、部屋は清潔で眺めもよかった。朝食付きで1700円だった! (さすがに朝食のクロワッサンは美味くはなかった) 周りは大好きなカルチェラタンだし、ポンピドゥーまでも歩いて行ける。 私はここを根城にパリの休息しを楽しんだ。 パリスコープを買って、フェリーニを観た。 fnacでレコードを買い、Jazzのライブを聴いた。 Bさんの所へ行き、荷物をもらって船便をつくった。 日本やヨーロッパの友達へ手紙を書いた。 大韓航空で再発行のチケットをもらった。 ポンピドゥー・センターでブランクーシのアトリエを観て、ミロの模写をした。 チュイルリー公園にある印象派美術館に行き、ルノワールやゴッホを観た。 こうした中で忘れられない思い出がいくつかある。 スケッチに使っていたロットリングのペンとインクが無くなったので買いに行った。 製図用品を売ってる店はないかと訊いたら、ある店を紹介され、買った。 店の看板の虹色のリンゴのマークが印象的だった。 (その後戻って来た時も、別のリンゴのマークの店でインクを買った) 私はパリの製図用品店のマークはカッコいいなと思った。 それがアップル・コンピュータのマークで、私がヨーロッパを放浪した1984年の1月にマッキントッシュのパソコンがデビューした、と知るのは日本に戻ってからのことである。 デビューから半年も経たないうちにパリには提携する店がいくつもあったのだ。 パリっ子は新し好きだ。 オペラ座に行った。 この建物は一見古く見えるが、実は鉄骨造で、完成したのは1875年だ。 コンペでシャルル・ガルニエの案が選ばれ、だからガルニエ宮と呼ばれている。 典型的なネオ・バロック様式で、内外共に力感溢れるデザインだ。 ローマにあるいくつかのネオ・バロックに比べれば遥かに品が良く、私は嫌いではない。と言うか、階段はとても好きだ。こんなに美しく、自然と上れる階段は見たことがない。 写真を撮ってるうちにその秘密が知りたくなって実測を始めた。そして途中の踊場まで来た時、何と2階から実測をしながら下りて来る別の人間がいるではないか!? あわててコンベックスをしまい、その場から消えた。 いかん、いかん!俺はもう建築はしないんだった!! 2階のホワイエも凄く豪華で、思っていた以上に大きな空間だった。 劇場内ではオペラではなくバレエの練習がおこなわれていた。 上を見上げると中央にシャガールの華やかな色彩の天井画がある。 これがなかなかいい! モダンとクラシックが合わさってて。 こういう所はパリの、というかフランスの上手な所だ。 グラン・パレでやってるカンディンスキー展を観にいった。 (私はこのガラスの大屋根から降って来る明るい光が好きだ) カンディンスキー(1866-1944)は抽象絵画の創始者と言われるが、どうやってそれを発明したのかが知りたかった。 当然のことながら彼の最初の頃の絵は普通だ。 それが1910年の風景画あたりから輪郭がぼやけた明解でない絵に成り始め、そのうち色と形が独立して表現主義のように激しいタッチの絵となり(個人的にはこの頃の絵が一番好きだ)、やがて静寂を取り戻して定規やコンパスで描いたような絵となり、最終的には具象的な記号の集合のような絵になる。 この1910年の変化は具体的にはどうやって成されたのだろう。 展覧会の会場の出口でカンディンスキーの大きな顔写真を見ているうちに、とんでもない仮説を思いついた。 眼鏡を取って視た風景を、眼鏡を付けて描いたら、こうなるのではないか?! 目の悪い人が眼鏡無しで見える風景がどんなものかは目の良い私にはわからない。 だが、それを逆手に取って新しい絵画がもし生まれたとしたら、それはそれでおもしろい、そう思った。 もちろん、これは単なる思いつきに過ぎない。だが、そうではないという確かな証拠もない。 私はしばらくこの仮説を楽しんだ。 そして準備と休息を終えた後、もう一度リベンジするためバルセロナに向かった。 かずま ![]() #
by odysseyofiska4
| 2014-07-24 20:12
2014年 07月 16日
![]() 「Odyssey of Iska 1984」 40.パリ、そしてケルン パリに戻るとすぐに大韓航空のパリ支店に行き、盗まれた航空券の再発行手続きをした。 長身の美人のフランス人スタッフは、マドリードから電話した時と同じく「No problem!」を連発しながらスラスラと書類を作り、最後にここにサインをしろと言う。 とても慣れているのは、私のように盗まれたり失くしたりする奴がたくさんいるということか? 終わって店を出る時、再発行されてもチケットは使わないかもしれない、とふと思った。 だいぶヨーロッパにも慣れて来た。このまま異邦人として残らないとも限らない。 だとすると手数料は無駄だな?! そう思った。 Bさんの所へ行って日本から来た手紙をもらった。 お袋から手紙が来てて、読むと、ぐじゃぐじゃ心配事や「あなたには秘密でも保険をやはりかけておけばよかった」とかくだらないことが書いてある。しょうがないので、 「こういうことを書くと、子離れしていない親に見られますので、お気をつけを」 とだけ書いて、ハガキを投函した。 (以後、ヨーロッパを放浪している間にお袋からは一通も手紙は来なかった。 私のハガキが効いたのではない。ただ単純に怒っただけだ。でも、それでいい。 親子の縁はいつか切らなければならない。へその緒のようにつながっていても、お互い不自由でいいことは何も無い。たとえどこかで野たれ死にしようと、それはそいつにそれだけの生きる能力しかなかった、というだけの話だ) パリのカメラ屋を見ながら、後輩のI君の「ケルンの駅前に新宿のヨドバシのように安いカメラ屋街があった」との言葉を思い出した。 私のユーレイルパスはあと2日で切れる。だったらカメラを買いにケルンに行こう。 幸い、パリーケルン間は電車で5、6時間だ。一泊すれば市内も少しは観れるだろう。 翌日昼過ぎにパリの北駅を発ち、夕方6時頃ケルン中央駅に着いた。 駅の構内に「4711ECHT KÖLNISCH WASSER」の大きな看板が掛かっている。 そうか!オーデコロンは「ケルンの水」のフランス語だったのか!とやっとわかった。 駅でお金をチェンジし、インフォメーションで宿を紹介してもらい外に出た。駅前広場にオニオンリングフライを売ってる屋台があり、それをみんなが食べている。私も買って食べたが、とても美味しかった。 食べながらふと横を見ると巨大な黒いタケノコが2本生えたような大聖堂が目の前にそびえ立っている。冗談じゃなくデカい。相当引いてもカメラのアングルに全体が入り切らない。 中に入ると、これまたデカい。 なんでこんなデカい教会をつくる必要があったのだろう? 国王や教会の権威の象徴だろうか?それとも国民の総意? いずれにせよ私はゴシックにはあまり惹かれない。 演出が過ぎて、神と人間とが乖離してしまったような感じがする。 それにひきかえ、ロマネスクには神と人間とが親しい関係で保たれていて惹かれる。 また、ルネサンスにもあまり惹かれないが、その後のバロックにはもう一度人間化(肉体化)して神との関係を親しくしようとした感じが見て取れ惹かれる。 こういう神と人間との関係や温度差をヨーロッパの教会を見ているといつも感じる。 大学で教わった建築様式の違いよりも、こうした感覚の違いを実際に感じる方がより重要で真実に近いように思う。 大聖堂の前の通りを歩いていくと、I君の言ってたカメラ屋街があった。まだ夜の7時頃だったが、どこも閉まってて開いてるのはレストランだけた。改めて東京の便利さを感じた。 その通りをさらに歩いていくとホテルがあった。 部屋に入るとこざっぱりしててとてもきれいだ。調度品も過不足無く、気の利いた工夫もされてる。色もグレー系で統一されてて、いかにもドイツだ。 ただ、値段もドイツで、駅のインフォメーションを通したから5500円で済んだが、通さなければ、9000円だ。今まで泊った中で一番高い。ただし、この部屋は気に入った。 ![]() 翌日は午前中からカメラ屋街に行っていろいろカメラを見たが、兄から貰い今まで使い続けて愛着のある盗まれたカメラがペンタックスSPFだったので、いまさら取説と格闘しながら他社のカメラを使う気がどうしてもしなくて、結局ペンタックスMEスーパーを買った。 免税も入れると、確かにヨドバシと同じか、それより安いくらいだ。エクタクロームもたくさん買ったが、一本700円くらいで現像込みだから、日本よりは断然安い。 このように精密機械や工業製品はドイツで買うのが得だが、だからと言って、スペインやフランス、イタリアの物がダメだとは思わない。 その国にはその国特有のデザインや匂いがあって、チープな色やデザインにも私はそれなりの価値を感じている。(イタリアのスーパーマーケットで必要に追われて買った80円の爪切りは未だに愛用している) カメラは買って再生できるが、盗まれたカメラ内のカルカソンヌの撮影フィルムは再生できない。同じように、盗まれたバッグ内のスケッチブックやメモ帳も再生できない。 お金で解決できることは大したことではない。できないものが大切なものだ。 それを改めて知った。 しばらくケルンの街を歩き、夕方の列車でパリに戻った。 新しいユーレイルパスを使い始める日までパリで少し休息することにした。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2014-07-16 15:49
2014年 07月 14日
![]() 「Odyssey of Iska 1984」 39.ふたたびパリへ マドリードに着いて丁度1週間後の金曜日、パスポートは再発行された。 (その時、私の記憶と実際の発行年月日は1日だけ違ってたと大使に言われた) TCの再発行はその日までに間に合わなかったので、翌月曜日に受け取った。 (その時、使用済み番号のチェックで間違えてたのは2枚だけだと言われた) 画家の先生に会いにホテルに行ったら、部屋はそのままに、トレドに2、3日写生旅行に出かけた後で、フロントに手紙を預けて去った。 文部省のYさんともその数日前ホテルで別れた。 銀行で必要な分だけペセタに換えて、その夜発つパリ行きのカタラン・タルゴの寝台車のチケットを買った。 ランチをゆっくりして、その後Gran Viaを端から端まで歩きながらスケッチした。 実は昨日も同じことをした。私は何とかしてこの大好きな大通りを身体できちんと憶えたかった。そしてきちんと定着させたかった。 私はマドリードと一体になりたかった。 坂道を上ったり下ったりしながら、カフェで道行く人をぼんやり眺めながら、たわいもないことを繰り返しながら、別れを惜しんだ。 夜になり、出発の30分くらい前にチャマルティン駅に着いた。 列車が入って来たので見ると、スペインの列車とは思えないくらいカッコイイ。 中に入るとさらに驚きで、床が低く、寝台車内はすべてFRPで曲線が多く、通路も真っすぐではない。私のコンパートメント内は2段ベッドだが、不思議なデザインだ。 入って来た車掌にパスポートを預けながら「本当にこれはスペインの列車か?」と訊いた。 すると、彼は「あったり前さ!スペインに決まってるだろ!!」と鼻高々に答えた。 (結局、他に客はいなかったので、パリまで一人で部屋を占有した。 国境まで時刻表通りに走ったので感心したが、遅れると罰金を払わなければならないのだというのは後で知った) 発車してからもしばらくは車内に目が行ったが、そのうち車窓の外の景色に見入った。 セルバンテスの時代から400年経つが、痩せた土地に点々と立つ不思議な建物を見ていると、今にもドン・キホーテが現れてきそうな気がする。 そんな幻影を楽しんでいるうちに、やがてすべては闇に包まれ消えて行った。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2014-07-14 20:00
2014年 07月 12日
![]() 「Odyssey of Iska 1984」 38.マドリード(5) マドリードに行くと決まった時から最初にやることは決まっていた。 ピカソの「ゲルニカ」を観ることだ。 もっと正確に言うなら、「ゲルニカ」の習作群を観ることだ。 (そこから派生して生まれた「泣く女」が私の最初に好きになったピカソの作品だった) だからすぐにプラドに行った。 「ゲルニカ」は本館ではなく、そこから少し離れた古い建物内にあった。 斜めに傾斜した大きなガラスケースに入っていて、警備も付いて、初めて見た時はちょっと異様な感じだった。隔離されてる感じだった。(旧フランコ派やバスク独立運動のテロの懸念があったのでそうしたのだろうが・・・) 習作群は周囲の回廊のような所にあった。こちらはそばでじっくり観れた。 「ゲルニカ」は私には既に完成されてしまった彫刻か透明な排泄物のようで、観てもそれほど燃えなかった。だがそのプロセスである習作群は観ていて自然と身体が熱くなった。この帰結が「泣く女」で、これらが描かれた1937年という年はピカソの画業中一つの頂点であることは間違いない。 「ゲルニカ」がスペインに返還されたの1981年で、まだ3年しか経っていない。 だからピカソはプラドではお客様だ。 本館を観ればすぐにわかることだが、プラドの主は明らかにゴヤとベラスケスだ。 イコンや宗教画が腐る程たくさんあるが、専門家でもない限りそれらをじっくり観るのは無駄だ。また、エル・グレコやムリーリョ、スルバラン、リベーラ などもあるが、やはり圧倒的なのはこの二人だ。 ベラスケスはレンブラントと共にヨーロッパ絵画における肖像画の技法を確立し、その後に多くの影響を与えた。また「ラス・メニーナス」は構成の巧みさ、複雑さという点からやはり後世に多くの影響を与えた。 ゴヤもベラスケスと同様、宮廷画家として成功し、多くの肖像画を残した。 二人の肖像画の特徴は、その人物の内面までもえぐり出し、狡猾さや美醜、暗愚をそのまま描いている点だが、特にゴヤのは凄い。よく宮廷画家がつとまったものだ。 晩年になればなるほど、居直ったというか、凄みが増して来る。 そして、あの一番奥の「黒い絵」の部屋に入り、私の魂は奪われてしまった。 この絵の迫力は何なんだろう!! また、この奇想はどこから来るのだろう?! 幻視か?! 悪夢か?! この絵を描いた理由は?! 未来の我々への予言か?! ゴヤ、お前は何者だ!! 私は14枚の絵を見ながら混乱し、絵画の極北を観ているような、そんな気がした。 結局、マドリードを発つ前日もプラドに行って「黒い絵」を観た。 また、「黒い絵」が観たいために、もう一度マドリードに行った。 プラドは世界最強の美術館だ、この「黒い絵」のシリーズがある限り。 その後、ゴヤが天井画を描いたサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂に行った。 (ここにゴヤは眠っている) ゴヤの絵に当てられたので逆に現代美術が観たくなり、現代美術館にも行った。 タピエス、サウラ、アントニー・クラーベなどスペインの作家が観れて、よかった。 (その時偶然観たセルジ・アギラールの彫刻展はめっけものだった) ホテルからいつも見えるのにまだ行ってなかった王宮にも行った。 広場に内覧希望者が集まり、中に入ったが、それほど深い感銘は受けなかった。 もう他にすることは無かった。十分マドリードを堪能した。 旅立つ時が来た。 かずま ![]() #
by odysseyofiska4
| 2014-07-12 16:59
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