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2010年 11月 16日
「Odyssey of Iska 1984」 7.フィレンツェ フィレンツェには明け方近く駅に着いた。 ローマに戻る前にフィレンツェに寄ろうと思ったのは、2人の絵描きの作品が見たかったからだ。フラ・アンジェリコの「受胎告知」とボッティチェッリの作品だ。 あとはミケランジェロの彫刻と建築を見たら、すぐに戻ろうと思っていた。 私は建築を大学で学んでいた時分からどういうわけかルネサンスという時代には興味がなく、だからその時代の建築の宝庫であるフィレンツェには(多くの建築家が褒め讃えるのとは違って)それほど強くは惹かれなかった。実際、現地を観た時もそう思った。 正直に言えば、ローマに対しても同じような思いだった。(ある時、Hに「ローマは墓場だ」と言ったら、お前と同じような事をドビュッシーも言ってると言って笑った) 反対に、誰も評価しない所でもおもしろい所はたくさんあった。 だが、フラ・アンジェリコとボッティチェッリを観るだけでもフィレンツェには行く価値がある。 フラ・アンジェリコの「受胎告知」はサンマルコ修道院にあった。 清楚な中庭を抜け、2階へ続く階段を上りながらふと見上げると、そこにそれはあった。 シチュエーションとの出会いが抜群で、神々しいくらいの光を放っている。 私は本当は宗教画はあまり好きではなく、その背景にある意味もうるさく感じる質(たち)なのだが、この絵は素直に惹かれた。テクネではなく、素朴なくらいに純真なその精神性に強く惹かれた。 ボッティチェッリの絵はウフィッツィ美術館にあった。 初めて観る絵もいくつかあったが、やはり観たかったのは「プリマヴェーラ」と「ヴィーナスの誕生」で、その官能的で優美な曲線を堪能したかった。 結論から言えば、十分酔いしれ、彼が発明した曲線は今後も歴史に残るだろうと思った。 それくらいオリジナルで素晴らしかった。 時間が無くなったのでミケランジェロの建築は(どうせ旅の途中でまた来るだろうから)次回にし、彫刻を観にアカデミア美術館に行った。もちろんダビデを観るために。 ダビデは中央円形ホールの真ん中に立っていた。 思っていた以上に大きい。そして、とても力強く、凛々しい。 圧倒されてしばらく観ていた。 だが、観ているうちに、どうも変だなと思い始めた。 (これは実はシスティーナ礼拝堂で「最後の審判」を観ていた時にも感じたことなのだが、)顔や手、足、局部が妙に生々しく大きく感じる。ミケランジェロの神経が他よりそこに集中しているのを感じる。意識が集中した分だけ描写は細かく精緻に強調され、ディテールは若干だが大きくなっている。 ピカソにも言えることだが、これはアーティストに付き物の末端肥大症候群だな・・・ そんなことを考えているうちに、列車の出る時間が近づいてきた。 駅のバールでエスプレッソを飲みながら手紙を書き、ポストに投函した。 ヴェネツィア行きの列車に乗り、夜メストレでマッコイのピアノを聴いてからフィレンツェに戻り、ふたたびローマへ向かった。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2010-11-16 00:11
2010年 10月 20日
「Odyssey of Iska 1984」 6.ヴェネツィア 明け方、列車はメストレに着いた。 私達はヴェネツィアというと本島のイメージしかないが、こちらも立派な陸側のヴェネツィアで、ここから海に浮かぶリベルタ橋を渡って終点のサンタルチアへ向かうのだ。 このリベルタ橋を列車が渡る時の景色には興奮した。両側の窓の外は海しか見えない。 まるで列車が海の上を走っているようだ。 サンタルチアは小さな駅だが、品があった。水平性を強調したファサードは基壇の上にあり、すぐ目の前にはカナル・グランデが横たわっている。その向こうにはスキー帽の形をしたかわいい寺院があり、工事中のクレーンが修復作業でゆっくり動いている。 駅のインフォメーションで、マップ、ホテルリスト、イベント情報などをもらったが、どれもが充実していてカッコ良かった。しかもきれいな英語で懇切丁寧に応対してくれた。 さすがに観光で生きてる街は違う。 サンマルコ広場に比較的近い安ホテルを予約してもらい、そこまで見物がてら歩いて行くことにした。 初めて歩くヴェネツィアの街路は迷路のようで、何度もわからなくなったが、それが逆に楽しかった。道を間違うことがおもしろいと感じられる街はそんなにあるものではない。 30分程かかって何とか着いた。古い建物で部屋も小さく、ローマのHのアパートとは全然違っていたが、逆にとてもうれしかった。やっと自分のスケールに合った空間に出会えた。 荷物を整理し、シャワーを浴び、再び街へ出た。楽しい探索が始まった。 結局、ヴェネツィアには1週間いた。 カーニヴァルを見るためにヨーロッパ中から人が集まったかのような喧噪で、ヴァポレット(水上バス)はいつも一杯だった。だが、街がうるさいとは少しも感じなかった。 その理由は、交通が船と歩行者のみで、車が無いことから来る静けさと安らぎが街を覆っているからなのだが・・・ しかも海からの風をいつも感じる。 ヴェネツィアは海洋性の国だ。どこかサラセンの匂いもする。窓は軽やかに開け放たれ、色も鮮やかで、異国情緒に溢れている。 私はたちまちヴェネツィアが好きになった。 ローマでいつも感じていた頭痛がいつのまにか飛んで行った。 街の中の至る所を歩き、わざと迷子になりながらそれを楽しんだ。 カーニヴァルもたっぷり堪能した。 中世の仮装行列のような衣装を着込み、仮面を付けた老若男女に街中で出会った。そんな格好の人間に夜中に路地で突然出会うと、私まで中世に迷い込んだような錯覚を覚えた。 そんなゲームを朝から晩までみんなで楽しんだ。 だが、終わりの無い祭りは無い。そして終わりはいつも悲しく美しい。中でもヴェネツィアのカーニヴァルは格別だ。 夕闇が押し寄せ、辺りが深い青に染まる頃、人々は皆サンマルコ広場に集まり、誰とは言わず興奮して騒いでいる。そんな時に突然、対岸のサン・ジョルジョ・マッジョーレから花火が上がり、皆、嬌声を上げながら海辺に出て、花火見物を始める。 日本で見る円形の整った凝った花火とは違い、ヒヤシンスのような形をした単調な花火ばかりだが、島の寺院を明るく照らし、海越しに見えるそれは、とても愛らしく美しい。 夢のような時間だ。 そんな時が1時間くらい続いただろうか・・・やがて人々がソワソワし始める。 夢が終わるのを察知し、胸騒ぎが始まったのだ。 そして最後に連発花火が夜空に舞い散り、すべてが終わった。 その瞬間のどよめきの凄さたるや、 「オオオオーーーーーーー!!!」 全員が叫んだ。 そして長い沈黙の後、誰も何も言わずにゾロゾロ帰り始めた。 こんなにみんなの心が一つになって終わりを迎えた祭は初めてだった。 次の日の朝、ふたたびサンマルコ広場に行った。誰もいなかった。 それどころか、街を歩いても昨日までと嘘のように人がいなかった。 潮が引いた後のように街から人が消えていた。 これには驚いた。 祭の後の白々とした気持ちまでもたっぷり味わされた。 いたたまれなくなり、島巡りをすることにした。 海からヴェネツィアを見たかった。 ビエンナーレの会場になっている、島の外れのジャルディーニにヴァポレットで行った。 ここには私の師のヨシザカとその仲間が若い頃につくった「日本館」があり、ここを訪れることは私には墓参りにも似た思いだった。 ジャルディーニはその名の通り、森のような広い公園で、その中に各国のパヴィリオンが点在していた。その一角に日本館はひっそり佇んでいた。 壁柱が卍のように並び、その上に豆腐のように浮かんだ白い建物は、一見すると地味だが、細部を見るといろいろな工夫がされてておもしろかった。 ヨシザカを思い出しながら写真を撮った。そして、凄い発見をした。 撮るアングルによっては「スカイハウス」に似ている。 私のもう1人のボスであるK氏の自邸は世界的に有名な作品だが、案外ルーツはここにあるのかもしれない。 ムラーノに行った。ヴェネツィアン・グラスで有名な島だが、少し観光化されてる感じで、あまりピンと来なかった。 船でさらに奥に行くことにした。ブラーノ経由でトルチェッロに行った。 鄙びた、何も無い島だが、それがかえってよかった。 昔、繁栄していた頃の教会が2つ残っていた。サンタ・フォスカ教会とサンタ・アリア・アッスンタ教会で、どちらも東からの風(ビザンチンの影響)を感じる。 帰りの船が来るまで他にすることがなかったので、それを観て、日向ぼっこをしながら のんびり時間を楽しんだ。 トリエステにも行った。イタリアと隣国ユーゴスラビアとの国境に近くにあるせいか、あまりイタリアの街の感じがしなかった。どこか閉鎖的で陽気でなかった。 天気のいい日だったが風が強く寒かった。半日程街を歩いて、そそくさとヴェネツィアへ戻った。 1週間いて、さすがに退屈になって来た。 フィレンツェ経由でローマに戻ることにした。 駅に行く途中で、マッコイ・タイナー・クインテットが明後日の夜、メストレで演奏するというポスターを偶然目にした。ヴェネツィアでマッコイのピアノを聴くのも悪くないなと思った。でも、そのためだけに戻って来るのは大変だな、どうしようか・・・ と考えているうちに列車はゆっくりサンタルチア駅を離れていた。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2010-10-20 21:18
2010年 09月 22日
「Odyssey of Iska 1984」 5.ローマ(3) 建築のことばかり書くと、まるでそれを見るのが目的でヨーロッパへ行ったように誤解されるが、最初に書いたように、むしろ私は建築を捨てるためにヨーロッパへ旅立った。 大学で学び始めて丁度十年目で、仕事の上でもプライベートでも燃焼したので、もう一度自分を白紙に戻して0から見つめ直したかった。 だから私の旅は毎日の生活をプリミティブに反復し、忘れかけていた身体感覚を一つ一つ呼び戻すことから始まった。 朝起きて歯を磨き、Hと奥さんに「おはよう」を言い、食事をすると、毎日ローマの街へ飛び出していった。王女から解放されてローマの街を楽しんだオードリー・ヘップバーンのように、私もローマを楽しんだ。近郊のカプラローラやチボリにも出かけた。すべてが新鮮に感じられ、おもしろかった。 名所旧跡もおもしろかったが、それ以上におもしろかったのは人間だ。 ほとんど英語は通じなかったが、道を聞くと口から泡を飛ばして教えてくれた。そしてそのほとんどが誤りで、かえって迷子になった。 刻そばをやられたこともある。 ジェラートを食べてお金を払ったら、「ウーノ、ドゥエ、トレ・・」と私の手のひらにおつりの札を渡しながら、「どこから来たんだ?」「ジャパン」「そうか、ジャポネーゼか」と言いながら、「ハイッ」と勢い良く残りを渡して奥へ消えてしまった。 次にお金を払う時に数えてみたら、2000リラ少なかった。 こういうことはよくあった。 だが、私はイタリア人は好きである。 人間が丸出しで、「自転車泥棒」(1948)の頃のままだなと思った。 そう言えば、「自転車泥棒」に出て来たヴィットリオ広場の、人混みでごった返す夕方の市で買って食べたピザは最高においしかった。マッチョなお兄さんの、こうやって食べるんだ、ガバッというオーバーアクションに負けて買ったのだが、新聞紙にくるまれた、100円もしない、あの時の熱々のトマトピザ以上においしいピザにはその後も出会っていない。 小さなガキンチョの女の子(5才くらいか?)に道で呼び止められ、タバコを強請られたのにもびっくりした。持ってないと言うと、とても不機嫌な顔をされた。 さすがに早過ぎるぜ、ベイビー! ところが、その夜、Hのアパートに戻る時に、少しローマを見物しながら戻ろうと思って、いつものテルミニではなく一つ前のレプッブリカで地下鉄を降りて地上に出たら、目の前を凄いグラマーのお姉さんが透け透けの服を着てノッシノッシと歩いていた。びっくりして周りをよく見たら、同じようなお姉さんが2、3人いた。その向こうには怖そうなお兄さんもいて、さらにその向こうにはローマの歴史遺産が立ち並んでいる。まるでフェリーニの映画のようにシュールだ! 夜のローマを初めて観た。 こんな不思議な街だから、あのガキンチョも成長が早いのか?! 街といえば、犬の糞には辟易した。ローマの至る所で散見した。 Hと奥さんが「注意しないと踏む」といつも言うので、「大丈夫、俺はそんなにうっかり者ではない」と威張っていたが、コロッセオのそばで後ずさりしながら写真を撮っていた時、いきなりムニュッとやってしまった。しまった!と思ったが遅かった。 犬のならまだよかったが、観光客用の馬車の落としていった奴をやってしまった。 ブーツを脱いでティッシュで拭き取りながら、自尊心が台無しになって行くのを感じた。 憎き馬め!馬刺しにしてやる!! そんなこんなしながらローマの街を探索していくうちに、原因不明の頭痛が始まった。 なぜだか理由はわからなかったが、通奏低音のようにそれは続いた。 そのうち、何となくわかった。ローマの建物は皆、神のオーダーでできているので、1階や2階の建っ端がやたらに高いのだ。その割に道幅は狭い。だから街を歩いていると、上から覆いかぶさり、押しつぶされるような感覚に陥っていく。 最初はそれに気づかなかったが、だんだんボディーブローのように効いてきて、気づいた時には最終ラウンドのボクサーのようになっていた。 (そろそろ、ローマともお別れした方がいいかもしれない)そう、思った時だった。 ナボナ広場で始まったばかりのカーニヴァルに魅了され、その衣装に身を包んだ子供達の写真を夢中で撮っていたら、それを見ていた老人から、 「本物のカーニヴァルが観たかったら、ヴェネツィアへ行け」と言われた。 途端に私は本物のカーニヴァルが観たくなった。 Hのアパートへ急いで引き返し、荷造りをした。 Hと奥さんに「今夜の夜行でヴェネツィアへ行く」と言って、食事もそそくさに真っ暗な外へ飛び出し、駅へ向かった。 こうして助走期間は終わり、私の本当の放浪の旅が始まった。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2010-09-22 23:49
2010年 09月 14日
「Odyssey of Iska 1984」 4.ローマ(2) バチカンを見た翌日はカンピドリオの丘へ行き、翌々日はポルタ・ピアと、ミケランジェロの建築を見て歩いた。 ミケランジェロの絵画や彫刻はどれもがダイナミックで力強い。量感やプロポーションも独特だが、それはそのまま建築においても当てはまる。 彼はルネッサンスとバロックを結ぶマニエリスム期の芸術家に位置づけられるが、実物を見ると、ほとんどバロックとしか言いようがない程、後者に大きく脚を踏み入れている。 というか、バロックを創出した、と言った方が正しいだろう。 ロマン派の絵画や表現主義絵画さえミケランジェロから始まったと言えないこともない。 それ程、すべてに大きな影響を与えた巨星だ。 だが、バロックの建築で一番感動したのはボッロミーニのクワトロ・フォンターネだ。 この建物は一般の有名な建物のように広場に面しているのではなく、交差点の一角にある。通りを歩いていると唐突に現れるので意外だった。(それぞれの四つ角には噴水があるので、この名が付いた) 正式には、サン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂という。 不利な立地だけでなく、敷地もとても小さい。おまけに予算が無かったのか、全体に張りぼてのような感じだ。 だが、そんな悪条件にも関わらず、当時不遇をかこっていたボッロミーニの創造性が爆発して彼の才能が遺憾なく発揮されている。小さい建物だが、サン・ピエトロに匹敵する重さと密度がある。 まず、ファサードが凄い。うねる曲面は、これぞバロックという感じだ。通りに面して引きが無いので見上げる感じになり、余計大きく感じられる。上部に設けられたメダイヨンも独特だ。 内部も小さいのに幾つものアルコーブが設けられ、楕円の模様が共鳴し、うねりながら自然と上部へ視線が上って行く。そして、あの複雑で美しい中央のドームで目が釘付けになる。 小さいが濃密で力強い、なんという空間体験なんだ!!! 地下にある聖堂や隣接する回廊も独特だった。ボッロミーニの、この小さな建物に注ぎ込んだ魂とエネルギーに脱帽した。 それに比べると、ベルニーニの建物にはあまり感動しなかった。 クワトロ・フォンターネから歩いてすぐの所にあるサンタンドレア・アル・クイリナーレ聖堂にしても、先に述べたサン・ピエトロ広場にしても、サン・ピエトロの中にあるバルダッキーノ(巨大な祭壇の天蓋)にしても、同時代を生きた人間であるにも関わらず、二人から受ける印象はまるで違っていた。 ベルニーニの建物はすべてが綺麗でお金がかかっていて、楕円も正確な幾何学に基づいていて、技術はすばらしい。(ベルニーニはその人生のほとんどを歴代のローマ法王から加護と寵愛を受けた) 反対に冷飯を食わされ続けたボッロミーニの建物は綺麗というよりねじ曲がっていて、材料や仕上も恵まれていなく、楕円も円弧の連続で作られた一時代前の技法だ。 だが、その方がずっとヒューマンで艶かしく、ダイレクトにボッロミーニの熱い気持ちと気迫が伝わって来る。 ベルニーニの建物は確かにすばらしいのだが、テクネ(技術や論理)が前に出過ぎていて、感動する以前に鼻持ちならない何かを感じる。それはローマ中に転がっている彼の有名な彫刻群においても同様だ。 もちろん、人によって感じ方は違うだろう。しかしこういうことの積み重ねから、私は自分がどういう人間なのか、何を大切に思っている人間なのか、を少しずつ自覚するようになった。 これに近い出来事(事件)はもう一つあった。 ローマ郊外のヴィラ・ジュリアに行った時のことである。 その日は暗い雲に覆われていて、地下鉄の最寄り駅からタクシーで向かったのだが、途中で道をわざと間違えられ、物の見事に料金を踏んだくられた。だが、知らない場所に何とか着いたのだからラッキーだと考え、中に入った。 ヴィラ・ジュリアは格別見たかったわけではない。Hが「おもしろいよ」と勧めなければ、多分行かなかっただろう。だが、中に入って考えが変わった。長い回廊が中庭を囲むように一周していて、独特の力強い構成を感じた。ヴィニョーラの作品ではカプラローラで見たヴィラ・ファルネーゼよりいいと思った。 だが、建物以上に強く惹かれたのはヴァザーリが作った中庭の庭園だ。 中央の半円形の東屋は1層、2層と掘り下げられ、回廊に囲まれ、劇場のようだ。 中庭自体がとても人工的かつ建築的で、建物と同じくらい力強い構成に貫かれている。 日本ではこうした強い建物や庭園に接したことが無かったので、とても驚き、魅せられた・・・ 帰ろうとしたら雨が降って来た。 傘を持っていなかったので、建物内部に閉じ込められた。 小1時間程、ずっと中庭を見ていた。 やっと雨が止んで帰れるようになった。 すると、不思議なくらいこの庭を退屈に感じている自分に気がついた。 さっきまでシンメトリーで力強い構成に魅せられていたのに、いつのまにかそれに厭き厭きしている自分がそこにいた。 いや、もっと不遜で、こいつら頭が固い馬鹿じゃないかとさえ感じていた。 京都の庭や、布や紙や竹や木でできた古い日本の建物が頭を過った。 それまでずっと、見る物聞く物すべてが新鮮でおもしろく、ヨーロッパに魅せられていた私が初めて疑問を持った瞬間だった。 だが、それは一瞬のことで、次に出会った新鮮でおもしろいもの達にかき消され、再び私はヨーロッパに魅せられて行った。 ただ、一度芽生えた疑問の種は少しずつ成長し、やがてそれは確信へと変わって行くのだが ・・・ただ、それがあきらかになるのは、それから半年以上先の話だ。 かずま #
by odysseyofiska4
| 2010-09-14 23:01
2010年 03月 23日
「Odyssey of Iska 1984」 3.ローマ(1) 結局、ローマのテルミニ駅には2時間以上遅れて着いた。 パリから連絡してはいたが、こんなに遅れたのだから絶対いないだろうと思っていたHと奥さんが駅で待っていたのでびっくりした。大変申し訳ない気持ちで一杯になり、 「ずっと待ってたのか?」と訊いたら、 「いや、さっき来たばかりだ」と言う。 「エッ!?」と驚くと、 「イタリアの列車が時刻表通りに来るわけないだろ?」と当然のように二人が言う。 もう、すっかりイタリア人に成りきっている。 Hと奥さんのローマでの滞在先はテルミニ駅から歩いて10分程の所にある古い建物の一角だった。中庭で佇んでいる人と「チャオ!」と挨拶を交わしながら階段を上っていくと、頑丈な扉の前でHが鍵をカチャン、カチャンと10回くらい回して開けた。不思議そうに見ていると、ローマは盗難が多いので、この手の鍵はポピュラーなのだと言う。 部屋に入ると天井高が半端でなく高いのに驚いた。4m以上は軽くある。ローマの古い建物は皆こうなのだという。だだっ広くて天井高も高いから、部屋の空気がやけに上部に余っているように感じる。 リビングが私に割り当てられ、そのソファベッドで寝た。いつも目を覚ますと高い天井が最初に飛び込んで来て、その違和感で起きた。不思議な感覚だった。 初日はH、奥さんと一緒に市内を軽く見たが、次の日からは一人でいろんな所に出かけた。 最初に出かけたのはバチカンだった。私がローマで一番興味があったのはミケランジェロの建築と絵と彫刻を観ることで、それらがすべて一度にできるのがバチカンだったからだ。 市内見物を兼ねてサンタンジェロ城まで歩き、そこからゆっくりアプローチした。 サン・ピエトロ寺院前のベルニーニの手による楕円の広場は、私には大き過ぎて間が抜けてるように感じた。巨大な列柱の群れも大雑把な感じがした。 もちろん、この広場が大晦日や新年には人々で一杯になり、ローマ法王が世界中の人々にメッセージを発する宗教的な儀礼の場(装置)として成功していることは認める。 だが、そうでない時のこの馬鹿げた空虚感は何なのだろう? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ サン・ピエトロ寺院も(半日かけて見たが)威圧感に驚くだけで、それほど感動しなかった。中にある有名なミケランジェロのピエタも衣服の襞の技巧が過ぎて、かえって心を動かされなかった。 だが、システィーナは違った。 凄かった。 ほとんど人間業とは思えなかった。 天井の一枚一枚の絵の構図はどれもが完璧で、とても一人の人間が成し得たものとは思えなかった。 ましてや、壁の「最後の審判」は構図のダイナミックさといい、力強いタッチといい、精緻な描写力といい、史上最強の絵ではないかと思った。(私が観た「審判」は修復が始まったばかりの頃で、洗浄で鮮やかな色彩が甦る前のものだが、黒ずんだ色彩が力強く、かえって私にはよかった) 震えた。 身体中で感じながら見続けた・・・ そこへ管理人が「プレーゴ!、プレーゴ!」と大声を上げながら入って来た。 もう、閉館だから出て行け!と言うのだ。 でも、実際はまだ30分も残っている。 何なんだ、こいつらは!と思い、みんなで無視して見続けた。 すると、そばにやって来て顔を見ながらさらに大きな声で捲し立て始めた。 どうやら早くみんなを外に追い出して自分達も早く帰りたいのだ。 何なんだ、こいつらは!またしてもイタリアか! だが、そんなことにはお構い無く、声とジェスチャーはどんどん大きくなって行く。 とうとうみんな耐えきれなくなって、外に出た。 感動が台無しになった。 ミケランジェロに言いつけてやる!!! かずま #
by odysseyofiska4
| 2010-03-23 15:28
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